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2007年5月

2007年5月26日 (土)

モンゴルの大地を駆ける(5)

【話の肖像画 】 産経新聞2007年5月11日付

 ◆日本とチベット 橋渡し役に

 −−来日の経緯は

 ペマ まず、亜細亜大学の木村肥佐生教授が、チベット難民の子供たちを日本に呼びたいと提案し、同大の倉前盛通教授に相談されたのです。倉前先生が、埼玉医科大学を創設した丸木清美先生に話を持ちかけ、資金援助を得たのです。

 −−いろいろな方がかかわっていたのですね

 ペマ 当初はチベット難民の医療向上のために、看護婦を養成する計画が立てられたそうです。ところが、チベット側は「第1期生は男子にしてほしい」と主張し、私を含めて5人の男子が選ばれたのです。私たちは1965年12月に来日しました。翌年4月から中学1年に編入するため、小学校の国語の教科書を使って日本語の猛特訓を受けました。

 −−中学校に入学してからいかがでしたか

 ペマ 丸木先生の地元の埼玉県毛呂山町の毛呂山中学に入学し、1年生のときは全く授業についていけませんでした。ただ、町の人が総がかりで温かく教えてくれました。教科書にルビをふってくれたり、食事に誘ってお風呂に入れてくれたりで、本当に親切でした。

 −−亜細亜大学に進学。在学中にチベット文化研究会を創設した

 ペマ ええ、1973年当時は日本にチベットを支援する団体がなかったので、自ら設立しました。72年に日中国交正常化が実現したばかりで、日本での中国熱は盛り上がっていました。少しでも反中的なことを言ったりすると、「反動分子」扱いされて困りました。そのような雰囲気が変わったのが89年の天安門事件で、それを境に、われわれの主張も聞いてもらえるようになりました。

 −−90年、ダライ・ラマの代表をやめています

 ペマ 連絡官の時期も含めて実質的に14年間も活動しているなかで、新しい人材が出てきたこともあります。また、ダライ・ラマ法王が89年にノーベル平和賞を受賞したことで、チベット問題にとっても大きな転換期になりました。これを契機に、私は大学に戻り研究に専念したかったのです。岐阜女子大教授や拓殖大学海外事情研究所の客員研究員を務め、チベット問題をテーマにして博士号の取得にも全力を注ぎました。

 −−テレビなどでコメンテーターとしてもご活躍です

 ペマ さまざまなチャンスを与えていただき、私自身の視野も広がってきた気がいたします。日本で培ってきた知識や人脈をモンゴルのためにも使えればと思っています。個人的には歴史に残るような日本とチベットの橋渡しをしていきたいですね。

 =おわり

 (聞き手 相馬勝)

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モンゴルの大地を駆ける(4)

【話の肖像画 】 産経新聞2007年5月10日付

 ◆“順番待ち”消えた死の恐怖

 −−インド亡命後の生活はいかがでしたか

 ペマ 1959年3月末、インド・アッサム地方の難民キャンプに入りました。ダライ・ラマ法王を慕ってチベットから逃げてきた難民があまりに多いので、インド政府が建設したのです。仮設キャンプだけに、屋根はあっても壁はなく、ジャングルを切り開いただけに、ヘビや蚊が多く、野生のゾウも出たほか、すごく暑くて環境は劣悪でした。

 何不自由ない幼年時代を過ごしましたが、キャンプであめをもらう際、隣の子供にひじでこづかれ、あめをもらえず、難民になったのだなと本当に惨めな思いをしました。

 −−つらいですね

 ペマ そこには数千人が住んでいて、私たちは3カ月くらい住んでいました。この間、栄養失調でおなかがぽっこり出て、水ぼうそうも患い、さらに感染症も併発して、キャンプ内の病院に入りました。病院と言っても、屋根があるだけの吹きさらしに粗末なベッドが置いてあるだけで、消毒用の殺虫剤が大量に散布されており、頭が痛くなるほどでした。朝起きると昨日までいた患者がベッドから消えており、子供心ながら「亡くなったのだな」と分かりました。こういう生活に慣れると、死ぬのは順番待ちのようなものになり、何も怖いものはなくなりましたね。

 −−悲惨です

 ペマ 付き添っていた父も、もうだめだと思ったのでしょう。少しでも涼しいようにと、私のことを優しく抱き上げて、外の風に当ててくれました。その微風が大変心地よく感じ、「生きたい」「死ぬのが怖い」と思いました。それで気を持ち直したのか、奇跡的に回復しました。

 −−お父さんの思いが通じたのですかね

 ペマ 父は当時38歳、96年に75歳で亡くなりました。父には本当に感謝しています。その後、ダライ・ラマ法王の義理の姉がダージリンに建設したチベット難民中心の学校に入りました。小中一貫教育で、上は17歳から下は5歳まで、全部で200人ほどいました。

 そこで2年ほど過ごした後、キリスト教系の団体から、難民の少年少女をミッション系スクールに入れる機会を与えられ、私はそちらに移りました。ダージリンは英国統治時代、英国人の避暑地でもあり、インドの中でも学校の教育水準が高く、すべて英語での授業でした。

 −−いつから日本に?

 ペマ 65年、12歳の時に、ほかの4人のチベット人と来日しました。当時の日本ではわれわれが難民第1号と言ってもよいと思います。

 (聞き手 相馬勝)

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モンゴルの大地を駆ける(3)

【話の肖像画 】 産経新聞2007年5月9日付

 ◆チベット侵攻で逃亡生活に

 −−日本への帰化に不安は

 ペマ 最も心配したのは、日本国籍を取得した後で、私がチベットのために日本を裏切ることにならないかということです。数年間悩みました。しかし、少なくとも私が生きている間は、日本とチベットが対立することはないだろうと思ったのです。

 −−ダライ・ラマには報告されたのですか

 ペマ はい。ダライ・ラマ法王は常々、「チベット人はどの社会にいても、その国の法律を守り、迷惑をかけることなく、できることなら、歓迎されない人物ではなくて、人々から歓迎される人物になりなさい」と言われています。それと、法王は私のことをよく冗談で「お前は日本人だな」とおっしゃっていました。例えば、1970年代には、日本政府が法王の入国ビザを拒否したことがありました。私は抗議すると同時に、自身の反省も込めて丸刈りにしたのです。自分でも知らないうちに、日本人の価値観で行動していたのです。

 −−故郷ではどんな生活を

 ペマ 当時のチベット・カム地方ニャロン地区で生まれました。いまの中国四川省甘孜(かんぜ)蔵族自治州新竜県です。山や川など自然が豊かで農牧業が盛んでした。父は豪族の長で、私の兄2人は僧侶になることが決まっており、私が跡取りでした。翡翠(ひすい)の茶碗(ちゃわん)と象牙のはしを使って、大理石の机をもつなど、裕福で何不自由のない生活をしていました。しかし、中国人民解放軍がチベットに侵攻してから、私たち家族は逃亡の毎日を送るなど、生活が全く変わりました。

 −−それは大変でしたね

 ペマ 中国軍の兵士は当初、農作業や水くみを手伝うなど礼儀正しく親切でした。しかし、チベット側との関係が悪化してくると、民衆と衝突するなど紛争がチベット全土に拡大しました。父は新竜県の県長に任命されましたが、中国軍と戦うようになり、私は家族や家来ら20人くらいでチベット中を逃げました。私も流れ弾に当たったこともありました。まだ子供でしたから、正直言って恐ろしかったですね。

 −−それはいつごろですか

 ペマ 58年ごろです。インドに亡命するまでほぼ1年間、逃亡生活を送りました。夜は移動し、昼は隠れて寝る生活で、クマやシカまで食べました。徐々に南下してラサに入り、その後、巡礼者のふりをしてブータン国境に向かいました。59年3月にチベット蜂起が起こり、「ダライ・ラマ法王がインドに亡命された」とのうわさを聞いて、われわれもインドに入りました。

 (聞き手 相馬勝)

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モンゴルの大地を駆ける(2)

【話の肖像画 】 産経新聞2007年5月8日付

 ◆独立放棄…日本に帰化決意

 −−初訪問(1991年)当時のモンゴルは一党独裁放棄による民主化導入で、混乱していたのでは?

 ペマ てんやわんやですね。価値観が大きく変わり、30代、40代の若手指導者がどんどん出てきて、日本の明治維新も、こういう感じではなかったかと思いました。現大統領のエンフバヤル氏は92年当時の文化大臣で、まだ34歳の若さでしたが、付き合ってみて、スケールの大きな政治家だと分かりました。

 −−モンゴルへは、どのような支援を

 ペマ 私は14年間、ダライ・ラマ法王のアジア・太平洋地区代表などを務め、法王の世界各国歴訪にも随行するなど、各国の宗教・文化関係の有識者らと親交がありましたので、モンゴルの新たな文化創造のために、さまざまな人々を紹介しました。そのなかには、モンゴルの民主化進展に尽力してくれた方もいらっしゃいました。

 −−ダライ・ラマとモンゴルの関係はどうですか

 ぺマ モンゴルで最も信じられているのはチベット仏教ですので、宗教的に最も尊敬されています。また、モンゴルの歴代皇帝はチベット仏教を信じており、両者の関係は極めて深いのです。

 −−今後、支援の重点は

 ペマ モンゴルは歴史的に遊牧民族です。今後は農業の普及による食糧の自給自足とウランバートルなど都市のインフラ整備が重要です。引退、退職した日本人のシルバーボランティアを組織化して、モンゴルの国造りに貢献できればいいですね。今最も必要なのは農業や医療、都市建設の向上だと思います。

 −−ところで、日本に帰化されたそうですね

 ペマ 一昨年の11月です。1965年12月に初めて日本の土を踏んだので、40年間の生活を経て、日本人になったことになります。生活基盤が日本にできてしまい、もはや日本以外では生活できなくなってしまったのです。

 −−なるほど、日本が本当の故郷になったのですね

 ペマ もうひとつは、ダライ・ラマ法王がチベットの独立を放棄されたことです。それは87年9月に米国議会での演説で提案した「5項目和平プラン」(独立放棄を前提に、将来のチベットの地位ならびにチベット人と中国人の関係についての真摯(しんし)な交渉の開始などを提案)です。

 チベット人としては、ダライ・ラマ法王の意思は尊重しなければなりません。しかし、私はずっとチベット独立のために働いてきました。中国の支配下で生きる気はまったくありません。これも私が日本に帰化した大きな理由です。

 (聞き手 相馬勝)

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モンゴルの大地を駆ける(1)

【話の肖像画 】  産経新聞 2007年5月6日付

 ◆観音像建設が生んだ親交

 《チベット仏教の指導者、ダライ・ラマ14世のアジア・太平洋地区代表やチベット文化研究所長として長年活躍、このたびモンゴル大統領顧問(社会・文化担当)に就任した。2005年11月、日本に帰化しており、同顧問就任は日本人としては初めて。これまで培ってきた日本を中心とするアジア人脈を駆使して、モンゴルの現代化建設に貢献しようと意欲満々だ》

 −−大統領顧問としての初仕事は

 ペマ 2月下旬からのナンバリン・エンフバヤル大統領の訪日でした。分刻みの日程のなかで印象的だったのは、大統領が神奈川県藤沢市の常立寺を訪問したことです。約730年も前の元寇時の元の使者、杜世忠ら5人を供養した元使塚があり、大統領はモンゴルの高僧を伴い焼香しました。大統領夫人が「長年供養してくださりありがとうございます」と住職に声をかけていました。

 また、博多湾で起きた元寇の戦死者を供養する日蒙合同慰霊祭が3月1日、福岡市で行われ、モンゴルのチベット仏教の高僧が大導師を務めました。元寇から700年以上の時を経て、日蒙友好協力関係の象徴的な行事となりました。

 《元使塚は1275年、幕府の執権北条時宗によって、近くの龍の口刑場で処刑された杜世忠ら5人の供養塔。元寇によって、日蒙両軍で14万人もの犠牲者が出たといわれる》

 −−エンフバヤル大統領との交流は長いのですか

 ペマ もう15年ほどです。モンゴルが90年にモンゴル人民革命党(共産党)による一党独裁を放棄したことに伴う民主化建設の象徴にと、92年に高さ26メートルもの大観音像の建設を計画しました。その責任者だった文化大臣がいまのエンフバヤル大統領です。大統領とはモンゴル駐在のインド大使を通じて面識がありました。ダライ・ラマ法王が落慶式に臨席することもあり、観音像の建設について相談を受けたことで親しくなったのです。

 −−モンゴルに行くことも多いのですか

 ペマ 91年の初訪問以来、多いときには年に4回、少なくとも年1回、全部で40回くらいですね。

 (聞き手 相馬勝)

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2007年5月24日 (木)

私の願い

◎ 私の願い

 日本は四季折々の自然の変化に富み、山の幸、海の幸に恵まれた豊かで美しい国です。そして、永い、輝かしい歴史と、先祖代々受け継がれてきた伝統を背景に、日本人の高度な精神文明や穏やかな民族性は育まれてきました。

 おかげさまで、私は過去40年間、この国の平和と豊かさを堪能し、多くの方々のご恩を受けてまいりました。日本人の謙虚さの裏には強い精神力が、厳格さのなかには深い優しさがあることを身にしみて感じてきました。日本人の揺るぎない忍耐力、「和の精神」に基づく協調性、そして負けず嫌いの向上心……それらがあったからこそ、敗戦後、屈辱と悲しみを乗り越え、みごとに国の復興を果たすことができたのでしょう。そればかりか、日本はアジア各国の経済発展にも大きく貢献し、明治維新とともに「昭和復興」は他のアジアの国々の憧れ、模範になり、「ルックイースト」「第三の文明」などの形容詞で賞賛されるようになったのです。
 
しかし、近年の日本はどうでしょう。奢りと平和ボケに加え、いくつかの誤った政策のために社会全体が歪み、病んできているのではないでしょうか。私は第二の故郷である日本に恩返しをするためにも、この国の病の早期治療に取り組むとともに、本当の意味で「美しい日本」を再現することに微力ながら尽力したいと考えています。

 そして国内外、特にアジアの国々に、自らの体験に基づいて日本と日本人の素晴らしさを伝えていきたいと思うのです。これは私ならでは、私にしかできない貢献になると確信しています。

 日本がアジアの仲間としての「自覚と自信」を持ち、アジアと共に歩む姿勢を明確にすれば、アジアの国々は日本のリーダーシップに期待を寄せ、信頼を寄せてくることは間違いありません。日本が正しく理解され、評価され、感謝されて初めて日本はその国力と国際貢献に相応しい地位を獲得し、堂々と国連の常任理事国入りを果たすことが求められるようになるでしょう。

「お元気ですか?」「おかげさまで」、「仕事は順調ですか?」「おかげさまで」——日本人の日常生活に溶け込んだ「おかげさま」というあいさつひとつ取っても、世界に誇れる素晴らしい習慣だと私は思います。「おかげさま」には助け合いの精神があり、「共生」の心があり、「共に生きて生かされて」の哲学があります。この「おかげさま」イズムこそ、21世紀の世界が平和に共存するための処方箋だと私は考えています。

いま、日本に必要なのは、こうした日本の美しさ、素晴らしさを自覚し、誇りと自信、自尊心を取り戻すことです。聖徳太子の「和」憲法以来、受け継がれてきた「平和」精神を再確認し、それを世界、特にアジアに発信することです。私にできることは、その架け橋となり、日本の国際的地位の向上に努めることで恩返しをしたいと願っております。

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