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2007年9月

2007年9月27日 (木)

世界宗教はありうるか(下)

仏教は南方仏教、北方仏教、密教などに分けられ、北方仏教の中でもチベット仏教を始めとして各国の宗教がそれぞれの特質を持っています。チベット仏教に至っては、大きく四つσ宗派が存在し、またそれぞれの宗派はいくつも枝分かれをしています。しかし外から見るとチベット仏教はひとつに見えますし、チベット仏教徒が他の宗派や宗教と関わるときは、不思議とチベット仏教に戻れるのです。しかし内側から見るようになると、あのお経の唱え方がどうのこうのと文句を言ったり、ご本尊や守護紳のことになると理屈を越えて感情的にすらなるのです。

日本の宗派についても、外国人や異教徒から見れば、最初は皆一つに見えるのですが、宗派間においてはまるで別のもので、うちの宗派とよその宗派で分かれて壁を作っています。

私たちはキリスト教は皆一つで、ローマ法王が全てのキリスト教徒のトップであると信じこんでいますが、キリスト教徒同士はそうは見ていません。

外国に行くとダライ・ラマ法王が仏教のトップであると思って下さる人が多いのですが、当然、仏教国においてはそうはいきません。

これらの例を見ても、それぞれ自分の価値観や信仰を他に押しつけようとしたり、互いの違いを強調したり自分の優位性を唱えたりするよりも、お互いに学びあい、そして認めあうほうが、はるかに共生の可能性が高まるように思います。ダライ・ラマ法王は、信仰を持たない人も幸せであり、信仰を持たない確信を持っていればそれを認めるべきであるとおっしゃいます。

マハトマ・ガンジーは、信仰を持たない者は他の動物と区別がなくなると、信仰をもつことの重要性を唱えています。またガンジーは全てのモラルの基礎には宗教が存在する、宗教を抜きにした倫理はありえないと強く信仰への確信を強調しています。日本では、憲法を盾に政教分離を主張する一部の左派系の学者や評論家たちが、宗教を否定することに熱心であったようです。私は今日、日本が直面している社会秩序の乱れは、宗教を否定する風潮の延長線にあるように思います。

私は小さいとき多くのキリスト教徒の菩薩的行為に救われ、献身的な介護と保護を受けたことがあります。そのせいか、私が仏教徒であることには変わりないのですが、キリスト教を始め他の宗教に対しての尊敬の気持ちも持っています。

日本は安倍内閣になってから真剣に教育改革に取り組もうとする姿勢が見うけられますが、残念なことに、私には”仏を作って魂入れず”のような、改革のための改革になっているように思うのです。目に見える登校拒否や校内暴力、学級崩壊などの現象ばかりを追っていて、原因追求をないがしろにしているように思うのです。

私は、日本再興の道は日本古来の伝統文化に基づく価値観、神仏混合の日本特有の信仰が最も現れている聖徳太子の十七条憲法や、教育勅語に救いを求めるべきであると思います。

日本が世界平和に寄与しようという気持ちがあるならば、聖徳太子の十七条憲法以来継承されてきた「和と寛容の精神」をもって世界と接することが、世界平和への第一歩になるのではないでしょうか。ガンジーやダライ・ラマ法王がおっしゃるように、各自が高度な倫理を持ち、各民族が特有の価値観を磨き、宗教をも含む他の特質を尊重していければ世界平和は幻ではなく、現実味のあるものになると思うのです。

財団法人・修養団発行「向上」(2007年7月号)より転載

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2007年9月26日 (水)

世界宗教はありうるか(上)

インドの独立の父として知られるマハトマ・ガンジーの著書『私の宗教」を読んで色々考えさせられました。

ガンジーは、「全ての宗教は、同じ目的地に向かう道順の違いに過ぎない。究極的な目的は真理であり愛である」と諭しています。またガンジーは、私たちが世界を一つの宗教にまとめることは不可能なことであり、かえって宗教同士の距離を広げることになりかねない。それよりも全ての信仰者が自らの信仰を大切にし、同時に他の人々の信仰を尊重すれば、宗教問の対話と平和が生まれるとおっしやっています。

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ガンジーは、自分の考えや宗教を、他に押しつけたり、他の宗教を批判したりするよりも、自分の宗教をより完壁に修行したほうが良いともおっしゃっています。

私は青年時代から十四年間ダライ・ラマ法王にお仕えし、数多くの宗教や宗派との対話などを企画、実行して参りましたが、その時々、ダライ・ラマ法王もガンジーと同じように「私は釈迦の一弟子に過ぎません。まだ毎日が修行の日々です」とおっしゃって、謙虚に他の宗派と接しておりました。その結果、各宗派から大変歓迎され、受け入れられました。法王のこのような努力が実ったのも、やはり他の宗教に対して、謙虚な姿勢で臨んだからではないだろうかと思います。

法王は更に、人々は自分の伝統的宗教や信仰を大切にすべきであるともおっしゃいます。法王は日頃から世界にたくさんの宗教があるのは、それぞれの国の歴史的体験、白然環境、時代などが影響しており、要するに人間の病は一つの薬で全てを完治できないように、宗教にもそれぞれの役割や効果が存在するという考えを示されました。

ガンジーは、一人一人が良いヒンズー教徒、良い仏教徒、良いキリスト教徒であることが、良い世界宗教を持つことと変わらないと指摘されています。またガンジーが、民族の数ほど、人間の数ほど宗教が現れても不思議ではないとおっしゃっていることに、私も共鳴しました。(続く)

財団法人・修養団発行「向上」(2007年7月号)より転載

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2007年9月25日 (火)

成長目覚ましいインドを訪ねて(下)

最近日本においては暗い、悲しいニュースをよく聞きます。石原東京都知事が、オリンピックを実現させたいのは国民に夢を与えたいから、と言うのもわかるような気がします。安倍首相の言う「美しい日本」も、もう少し具体的なビジョンとそれを実現する政策を持って国民に呼びかければ、日本の再生と美しい国の実現は決して不可能ではないと思います。

私はそのような前向きな気持ちで日本へ戻って参りました。しかし日本に戻って三日目、家内と夕食をした比較的高級で人気の老舗では、がっかりしてしまいました。父親の前で帽子を被ったまま食事を取る二十代の若者と家族……私はその父親がいつになったら子供に注意をするかとずっと興味を持って見守っていた所、食事を終えた途端、父親は椅子にふんぞり返って足を投げ出し、周囲には目もくれず煙草をふかし始めました。すると未成年者にも見えるその青年も煙草をふかし始めました。親子の間においても、ふんわりとした緊張感とマナーは必要であると思いますし、ましてや白分の家と公共の場の区別をするくらいの精神性が必要なはずです。

もちろんこの家族には「いただきます」も「ご馳走様でした」もなかったように見うけられました。この数十年、日本は豊かな社会としてお腹を空かせたまま出勤しなければならないようなことはありませんでしたが、最近は駅に続く階段で食事をしている人を見かけることがあります。私の事務所のスタッフは、それは「浮浪者」ではないかと言いましたが、私はそれを勘違いして「不労者」ではないと言いました。

ここで初めて「ふろうしゃ」に相当する二つの漢字について考えるきっかけができました。私は今まで「不労者」と思い込んでおり、日本人の働くことを尊ぶ文化から、働かない者に対する偏見から「不労者」と決めつけていると思っていました。つまり働きたくても働く環境のないことを考えずに決めつけていると思いました。しかしもう一つの「浮浪者」は、私の概念から言えばフリーターであって、仕事というものを軽んじて自由で楽な仕事を求めている者を指す言葉のように考えていました。こちらのほうは真剣に働く意欲、つまり精神に欠けている者で、労働環境よりも本人の問題から生じています。

したがって前述の親子の状況を見る限り、幸いにして現在は収入か財産に恵まれているようですが、将来に対しての危機感も緊張感もない様子から、私は不安を感じて、家内に我々が老後を過ごすこの国の十年後、二十年後が心配であると話しました。向かいに座っていた家内は、隣のテーブルにいる団塊の世代とおぼしき白髪交じりの三名がしゃべっている大声で、私の言葉が聞き取れないと言いました。本来なら人生経験が豊かで紳士と称されるべきこの三名の羽目をはずした振る舞いにはいささか落胆しましたが、「お前」「俺」「こいつ」などという言葉の交じる会話からすると、どうやら幼な馴じ染みか同級生同士のようでした。幼い頃の仲間にはなかなか会えない私は段々とうらやましい気分になって、やがてその喧騒も許せるような気持ちになりました。つまり私達が嫌だと思うこと、醜いと思うことなども含めて、心の持ち方によって変わっていくということです。

「豊かな精神は、健康で幸せな体につながる」というインドのヨガの先生の言葉をふと思い出しました。その先生によると、息を吸うときは「幸せ」つまり「プラスのエネルギー」をたくさん吸い込んで体を満たし、吐く時は自分自身の「マイナスの要素」全てを吐きだすことで、健康でたくましい体を保持し、無病息災で幸せに暮らせるそうです。

財団法人・修養団発行「向上」(2007年6月号)より転載

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2007年9月24日 (月)

成長目覚ましいインドを訪ねて(上)

「健康な肉体に健康な精神が宿る」という諺がありますが、健康な精神を持つことで健康な肉体を保持するという逆説も成り立つと思います。

最近、私は一カ月間に二度ほどインドを訪問しカルカッタ、デリー、バンガロールなど主要都市を廻って参りましたが、若者の問に精神性の向上を図ろうとする人が多いということが目につきました。意外に思って弟に尋ねてみると、それは若者に限らず、今インドにおける一つの社会現象であり、テレビで著名な精神指導者による説法が流行っているということでした。

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半信半疑でテレビのチャンネルをひねってみると、確かに早朝ですら四〜五チャンネルで説法が行われ、シーク教徒、ヒンズー教徒、キリスト教徒、ムスリムの方々が雄弁に弁舌を振るっておりました。女性の説教師もいました。皆さんの自信に満ちた話ぶりを見て、私もはまってしまいそうになりました。もちろんインドという国柄もあってか、ヒンズー教関係が一番多いようでしたが、英語でのチャンネルもありました。

一番人気があるのは、ヨガを交えながら呼吸法を中心とした精神と肉体の関わりをわかりやすく説く、四十代後半から五十代初めのグル(指導者)のようでした。彼の番組を見ながら、私は自分が日本へ来た頃のNHKの朝のラジオ体操を思い出しました。戦争に敗北し、国の再建に全力をかける当時の日本人は、体が資本と言わんばかりに、工場でも学校でも地域コミュニティーであってもNHKのラジオ体操に励んでいました。

高度成長を誇り、二十一世紀のリーダーとして台頭し始めているインドは、国民の意識に大きな変化が生じているようです。その大きな変化というのは、国民全体がプラス思考で動き出しているということです。未来に対して希望と夢を抱き、個々の人生においてもさまざまな未来像を描き始めているようです。ちょうど日本人がマイカー、マイホーム、冷蔵庫とクーラーつきの生活を夢見て、突進して国民総中流階級へ向かっていた時の情熱に、ここインドで再会したような気分になりました。ともかくも、国民一人一人が前向きになることで、そのプラスのエネルギーが大きなうねりとなって新しい時代を切り拓いていくものだということを痛感しました。(続く)

財団法人・修養団発行「向上」(2007年6月号)より転載

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2007年9月23日 (日)

幸せの土台(下)

例えば最近もてはやされている「男女平等参画共同社会」という言葉があります。これは働く女性、特に既婚者が働けることがその目的とされており、その環境整備の一環として高く評価されています。

私はチベットで生まれました。その地方は遊牧と農耕の両方を営んでいたため、男女の仕事の役割分担が曖昧です。男性も編物、裁縫、炊事などをしますし、女性もいざとなれば鉄砲を持って戦いに参加したり、戦場で戦う人々の手当てや馬の番をしていました。ですから男女の仕事分担に関して、特別な先入観は持っていません。

その私には、日本や西洋の一部の人々の見解には納得がいかないことがあります。父親と母親には家族内における得意な部分、代わることの出来ない部分があるからです。「男女平等参画共同社会」というのは、私の考えでは、世界の資本家達が労働者が足りないために便宜上考え出したことです。何故ならば、夫婦共働きをしたからといって、家族がより豊かになり、より幸せになっているとは思えないからです。むしろ夫婦共働きをしなければ、家族を支えて子供に十分な教育をすることが出来ない社会になっているのです。

今回の帰郷で、私はトランク一杯のお土産を持って帰りました。同行していた日本人の友人は「ペマさん、荷物が多いですね」と言って驚いた様子でした。以前モンゴルに出かけたときも、日本人の同行者から同じようなことを言われました。そのお土産は、家に着いてトランクを開けて家族親戚に渡すと、あっという問に底をつきました。たまたま母たちを訪ねてきていた親戚の叔母に渡すものがなくなっていました。それで、つい「親戚が多くて大変だ」というニュアンスの言葉が口から出てしまったところ、母親からさんざん説教されました。

「あなたは無人島にでもいって暮らすしかないではないか。人間、生きていく上において親戚や友人がどんなに大切かということをわかっていないようだ。誰もあなたから高価なものを貰い、それで生活をしようなんて思っていない。大事なことは、親戚一人一人、友人一人一人に対して『あなたのお蔭で元気でやっています』『あなたのことは忘れていません』と表現することで、お土産はその印に過ぎません。そのような親戚つき合いも出来ない人は、いずれ寂しい思いをして、野良犬のように親戚、友人から追い払われる身になるでしょう。あなたはとんでもないことを口にした。ということは、心も同じくらいに汚れているということだ。あなたは自分があげると同時に、貰っていることを忘れているのではないか……」

来客の中に、私の生まれた故郷から何千キロの旅をして母たちの様子を伺いに来た、故郷の僧侶がいました。彼は、故郷でたくさんの僧侶達が集まって祝福をしたツァンパ(麦焦がし)の団子を持ってきていました。母は、「これを見ろ、○○さんが何日も懐にいれて持ってきてくれたものだ。この団子には故郷の人々の思いが入っている。それはあなたの住んでいる豊かな国においては犬の餌にもならないかもしれないが、私達にとっては故郷の人々との大切な絆を維持する、大事なものだ」と言って、僧侶が帰るときにちゃんとお布施を出すようにと指示したのです。

母の言うとおり、私は帰りも結局は、親戚、友人から貰ったお土産で一杯になり、ダラムサラでは友人からカバンを借りるはめになりました。同じ物を数多く貰うことになり、正直言って私には困った面もありましたが、母の言葉やお土産一つ一つに託されている人々の愛を考えると至福を感じ、ややもすれば核家族社会、個人主義の社会に住みなれている自分の寂しさを逆に浮き彫りにされた旅となりました。

財団法人・修養団発行「向上」(2007年5月号)より転載

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2007年9月22日 (土)

幸せの土台(上)

このたびインド、ネパールそしてインド国内の小チベットと言われるダラムサラヘ行って参りました。

そこで感じたことは、私達アジアの共通の文化として、人間の幸せを側面から支えてきたのは家族であり、特に大家族主義であったということです。

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近年、日本における国際化、グローバライゼーションがもたらしたものは、それまでの家庭の基盤を根底からぶち壊し、西洋的な核家族の形態をより一層確実なものとするものでした。それが今日、日本の社会的な病いの原因になっているのではないかと思います。

私の場合はもともと大家族でした。外国の友人から「日本にあなたはファミリーを持っていますか」とか、日本人の知人からは「ペマさん、あなたはご家族が日本におありですか」と質問された時、最初のうちは、「両親と何番目と何番目の兄弟妹がインドのニューデリーにおり、その他の兄弟妹はインドのバンガロール、ダラムサラ他、アメリカに居住しており、日本には私と妹夫婦、甥、姪がいます」と、延々と説明していました。やがて相手が求めている答えに気がつき、私は簡単に「日本では家内と犬一匹と私だけです」というように答えるようになりました。ある時インドで、妹のいる目の前で同じような質問を受けた時、私はうっかりして「家内と犬一匹です」と答えたところ、帰りの車の中で妹から「お兄さん、私達は家族ではないのですか」とさんざんなじられました。妹にはかなりショッキングなことであったに違いありません。

私は大学で「世界人権宣言」について講義を持っています。「世界人権宣言」の中では、家族は社会の最小限の単位であると明記されており、関連の解説などを読むと「家族」とは父と母と未婚の子供のみを指しています。つまり世間で言う、核家族のことを指しています。

近代化、都市化が進むにつれて、家の設計、家族の形態が徐々に家族を分散させるような構図になってきています。子供が結婚をしたり自立して生活を始めるにつれて、各々がその生活を支えることに手いっぱいで、いつの間にか、例え親兄弟でも、構造的に互いに支えきれないような環境を作っているように思います。(続く)

財団法人・修養団発行「向上」(2007年5月号)より転載

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2007年9月21日 (金)

幸せを維持するために(下)

その上、国際社会においては各国が白国の利益を遵守し、自国にとって思想的、制度的な同類性の高い国同士がグループを組み、お互いに協力しあって、経済的発展や安全保障を図って行くのです。

例えば、アジアにおいては上海機構(中国、ロシアの他、ソ連崩壊後に誕生した中央アジアの国々が結集したもの)、ASEAN(かつては共産主義からの自衛のため結集した七つの東南アジアの国々に加え、インドシナ三カ国やビルマによる協力グループ)、SAARC(インド、パキスタンなど七つの南アジアの国に、今年からアフガニスタンが加わり、南西アジアの国々が相互協力のために組織した地域グループ)などであり、その他、NATOやEUもその一例です。

国内においては労働組合から政党、政党の中における派閥まで、基本的にはそれぞれの思想や理念、利益などの共通の目標と価値観を持っている人々が力を結集し、他の勢力やグループに対抗するために作られています。

つまり少しでもそれぞれが自分の理想に近い社会や世界を夢見て、より良い環境を作ろうとする基本的な意図は同じですが、その目指すものの形や方法が異なります。それぞれ自らの方法が一番であると信じ、自分の考えがより有効であると確信している訳です。到着する最終目的地は同じであっても、そこまで辿りつくための道順や交通手段が異なるのです。

ある人は民主を重視し、別の人は自由を、また別の人は平等を強調した社会主義などを掲げているわけです。更には民主と社会の利点を複合した民主社会を唱えている人々もいるわけです。

人間は仏教的に言うと百八の煩悩、つまり欲があり、またチベットの諺では四百二十四種類の病があると言います。従ってそれぞれの欲やそれぞれの病を治すためには、その欲の質や病の程度などによって処方箋も、薬も変わるはずです。しかもその処方筆と薬の使い方を間違えれば、命に関わる重大な問題が生じるかもしれません。

別の言い方をすれば、時と場所によって政治の有効性も変わる訳で、間違った制度や政策を選んでしまえば、国や社会がめちゃくちゃになり、逆効果になることもあるのです。

過去においては、国民を思う知恵豊かな国王の出現によってその国が繁栄し国民が幸せになりました。しかし民主主義の社会など、成人国民が選挙権を与えられている社会では、国民一人一人が国の運命を左右し得る重大な責任と大きな権限を持っています。

つまり国民一人一人がかつての賢い王のようになり、各自の持つ一票の生かし方によって国の運命を左右しかねない重大な責任を持っている自覚が必要であるように思います。もし国民白らがこの権利を放棄し、またはこの権利を粗末にすれば、自ら律する能力を持たないことになり、他によって律されるのみならず、国家の場合には独立性を失い、個人の場合には奴隷になり下がっていくのです。

かつて若きジョン・F・ケネディーは大統領の就任式で、「国民は国が国民に何をしてくれるかではなくて、国民が国のために何をするかを考えるべきで、また世界はアメリカが何をしてくれるかではなく、我々が一緒になって何が出来るかを考えるべきである」と訴えました。今度の選挙において国民一人一人が政治への無関心から脱却し、自らの一票を慎重に生かすことで、自分自身の幸せを左右できるという白覚を持って臨めば、この国も、世界も必ず良くなると私は信じています。

財団法人・修養団発行「向上」(2007年4月号)より転載

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2007年9月20日 (木)

幸せを維持するために(上)

昨年一年間は「幸せとは何か」ということについて、精神的な側面から私の愚見を述べさせていただきました。今年はその幸せを維持するための環境や諸条件について少し考えてみたいと思います。

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今回は、私達が幸せな環境を構築し、それを維持するための一つの条件としての政治について語ります。特に今年は、地方選挙や参議院選など、国民の選択次第で、その後の白らの幸せを左右しかねない重要な年です。

政治の定義についてはいくつかあるでしょうが、私としてはまず何よりも、人間が自分の意のままに相手を動かし、そして自分自身が少しでも楽をし、幸せになろうとする働きであると思います。

大きく言えば国家同士がそれぞれの自国の国益を追求し、少しでも相手を自分の有利な方向へ導こうとするための行為、つまり外交などがその一つです。

しかし政治は全てがそのような大規模または国家組織で動かすのではありません。例えば赤ん坊が、おむつの汚れで居心地が悪くなったり、或いはお腹が空いたり、どこか具合が悪くなったり、寂しくなったりすると、懸命に泣いて母親や周囲の注意を引き、自分の要求を訴えようとします。また子犬も同様に、ある時は尻尾を振ってご機嫌を取り、別の時や別の人に対しては歯をむき出して威嚇したり、時によってはかみついたりして、白分の要求を通したり、身の安全を確保します。このように、ある一定の計算と打算をタイミング良く行うのも一つの政治ではないか、と私は思うのです。

つまり政治とは、私達が少しでも自分の生活をより良くし、そして不安や生命の危険に対する恐怖を回避し、自ら楽と安全を求める行為であるのです。そのためにより複雑な駆け引きをしたり、一人の力の限界を悟ったらより多くの賛同者を募って集団でその目的を達成しようとするのです。

国内においては政党などの結社がその一例であり、国家間においては各々の国の国民が与野党や宗教的、部族的違いを乗り越えて、国家という単位をもって結束したりします。

更に国家という単位の中で、自分達の生活をより豊かにするために努力し、危険を排除するために防衛力を蓄え、そしてその防衛力を行使します。また物理的に国家同士がぶつからないための外交、あるいはぶつかった時に自国にとって少しでも有利な結果をもたらして戦争を終結させるための手段としての外交も成り立つ訳です。

(続く)

財団法人・修養団発行「向上」(2007年4月号)より転載

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2007年9月19日 (水)

日本人総中流意識を再考して(下)

かつてインド国民は、独立の機運を高めるために、自分の資産、即ち奥様達が装飾品などを提供しました。一九九〇年代に、外貨準備高が底をついたインド、通貨危機に見舞われたタイと韓国でも、国民が自発的に個人の装飾品などの財産を国に提供しました。これらの行為は大海の一滴だったかもしれませんが、その行為は国民のモラル向上と国の復興に大きく貢献したと思います。

最近テレビなどで消費税の増税に関する賛否が論じられていますが、私は日本国政府がその税金の使用方法を国民が納得出来るようにきちんと説明できれば国民は増税に納得するでしょう。しかし、それが吸血鬼のように弱者の血税を吸い上げるのみで正当性のない遣い方なのであれば、当然国民は納得するはずがありません。

近年、国民の命と直接つながりのある、公共性の高いガス、水道、電気、住宅などが次から次へ民営化され、料金を滞納すれば供給が止まってしまうような仕組みに、構造的に変わりました。また医療に関しても本当に援助を必要とする者が救済されない仕組みに変わっています。日本国憲法が文化的最低限度の生活を保障しているにも関わらず、あのNHKでさえも傲慢になり、受信料を払わない人と払えない人の区別をせずに強引な徴収をしようとしていますが、その受信料と国家からの予算の遣い方には納得出来ない部分が多くあります。

今のように税金のみが高くなり、その見返りが底辺に届かない傾向は、貧富の差を拡大するばかりです。幸せだった国民総中流時代は過去のものになりつつあります。

愛国教育の第一歩は国家が国民を大切にし、また国民が自分の幸福の大きな要因は国家の安泰にあることを気づくことにあります。即ち幸福の条件のひとつは、国民全体が物質的、精神的に満ち足りるよう努める国家の政策にあると言えるでしょう。

高齢者が自らの過去を振り返り、自分の社会貢献に満足を感じ、先々に対する不安がなく、若者が未来に希望を持つことが出来、中年層が現状に意義と誇りを感じるような社会作りこそが幸せな環境であり、国家の最大の任務と言えるのではないでしょうか。振り返って見ると世界一安全な国、豊かで国民全体が中流階級として邁進していたあの時代は、理想に近い幸せな国であったのかもしれません。二〇〇七年の年頭にあたり、私はその夢の再現を祈願しております。

財団法人・修養団発行「向上」(2007年3月号)より転載

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2007年9月18日 (火)

日本人総中流意識を再考して(上)

前回中年男性のゴミ漁りについて書きましたが、このことについて友人のMさんに話したところ、彼女は「ペマさん、それは確かに悲しいことではあるけれど、新宿のホームレス達は美味しいものを食べ過ぎて通風になっているという話よ」と言って慰めてくれました。私は彼女の優しい気持ちに感謝しつつ、その夜、再び彼女の言葉と、自分が見たゴミ漁りの中年男性を思い出しながら考えました。人はホームレスでいて本当に幸せと感じているのでしょうか。ゴミ漁りの生活を最善の生き方と思っているのでしょうか。

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自ら宗教的な生活を選び、一切の執着を捨てて出家し、全ての実世界を超越した所に自らを持っていこうとしている、ジャイナ教、ヒンドゥー教、仏教の行者であれば、そのような人生観に基づいて生きることは可能でしょう。しかし私には日本のホームレス達は、私同様の凡人にしか見えません。

そして凡人即ち普通の人間であれば、誰しも尊厳と誇りというものを持っているはずです。ただ食べるためのみに生き、そして太っていることが幸せの条件になるのであれば、他の動物とさほど違いがないのではないでしょうか。

昔の日本には「武士は食わねど高楊枝」という言葉がありました。その子孫である人々が人間としての誇りと尊厳を失ってしまったら、あるいは自分自身のプライドのみならず他の人間のプライドに無神経になってしまったら、人間は智性、理性、感性を失い、動物化していくことになるでしょう。それに加え闘争心や他に対する思いやりの心などを失ってしまえば、ますます「けだもの」化することにつながるのではないでしょうか。

私は、日本国民と日本政府に、自らの幸せは他と共にあり、周囲が不幸になればやがて自分もそれに引きずりこまれ、やがて不幸になるという因果応報の哲学を思い出して欲しいと思います。かつて日本では国民総中流階級という時代がありました。今から考えれば、それは大多数の人々が満ち足りていて幸せであったと言う意味であったのです。つまり戦争に負けた日本の指導者達は人の苦しみや悲しみをよく理解しており、国民全体が満ち足りて安心して暮らせる社会そのものが真の国力であることを悟った結果であったのかもしれません。昨今、勝ち組・負け組の二極化を当たり前とする論調がまかり通っていますが、家族であれば弱者でも切り捨てることが出来ないように、一国においても弱者を切り捨てて強者のみが幸せになれると思っているのであれば、それは幻覚・幻想であって、真の幸せは訪れてこないのではないかと思うのです。

美しい国を作るには、その美しさを味わえる心のゆとりがなければできません。その心のゆとりは、衣食住が足り、そして安全で安心した暮らしが約束され、明日への希望を持てる環境の中にこそ、生まれてくると思うのです。子供に愛国教育をするにも、その国が誇れるような国でなければ、国を信じ、国を愛するような心は育たないでしょう。同様に国民を愛せない政府は、国民に愛国心など喚起することは到底無理なことです。国民一人一人が、国が自分の生活に欠かせないものであり、自分が安心して暮らせるのは国と国の政策の賜物であるという確信を得てはじめて、国に対する信頼、愛着が生まれてくるのではないでしょうか。(続く)

財団法人・修養団発行「向上」(2007年3月号)より転載

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2007年9月17日 (月)

温かい心を持つために願う(下)

ちょうどこのニュースを聞いた日、私はあるマンションのごみ置き場近くで人を待ちながら、四十後半から五十代始めの男性がごみを一生懸命漁る姿を見て、大変悲しく思いました。どう考えてもこの男性は五体満足ではあるようですが、その行動は人間としての尊厳が失われて、ただ生きることに必死になっているように見えました。二十年前の日本でそのような光景を誰が想像できていたでしょうか。私は日本という国がそのような方々を生んでいないことに常に尊敬の念を抱きながら、私自身が豊かな国にいられることを喜び、神に感謝してきました。現在勝ち組と言われている人々は、敗け組の人が怠け者だからとか無能だからとかというようなことを、平気で口にするようになりましたが、私は必ずしもそうではなくて、このような方々を生んでいるのは社会の構造の変化、特に政治家を始めとする権力者達が無神経になり下がったからだと思います。

最近テレビなどを見ていると政策論争などにおいてコストの問題や効率の良さばかりが強調されますが、その政策は何のため、誰のためであるかという目的と、それによって誰かを幸せに出来たとしてもその副産物として誰かに犠牲を強いられ不幸にするのではないかという配慮、つまり血の通った気配りがなくなっているように思うのです。真の幸せとは何かを考えるとき、このごみを漁っている人はまだ生きているから良いのではないか、或いはこのゴミ捨て場の近くにレストランがあることがこの人にとっては幸せなことなのかもしれません。しかし私達は皆人間として衣食住に不白由しないような生活をすることは憲法においても保障されているはずです。年収一千万以上を取っている政治家や学者など生活に大きく影響を及ぼす立場にある権力者たちは、年収三〇〇万を大きく下回っている人々に、どのような生活を文化的な生活であると言うのでしょうか。

政府は高齢化社会を支えるため少子化問題を解決すべく国民に子供をたくさん産むように奨励していますが、その子供達の未来や、その子供を産んだ人々の未来について希望を持てるような政策を考えているのでしょうか。見聞するところによると今の高齢者達は不安を一杯抱えながら日々を過ごしているようです。幸せとはそのような不安の無い状態であることも一つの要素であるとすれば、権力者たちを始めこの国の人々はもう少し他に対する温かい人問的な神経を遣ってもらいたいと願っています。私は幸せになりたいと思って帰化の道を選択しましたが、その私の憧れの日本は何となく私の願いとは反対方向に傾斜しているように思います。それでも国際社会全体から見ればまだまだ私は幸せな方であると自分では思っていますし、だからこそこの状況が悪化しないことを切に願っているのです。勿論他力本願ではなく幸せになるため自らも努力しなければと思い、ここにこうして愚痴をこぼすのも、私はこの国そしてそこに住む一人としてこの叫びが権力者の耳に届くことを心から祈願しているのです。

財団法人・修養団発行「向上」(2007年2月号)より転載

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2007年9月16日 (日)

温かい心を持つために願う(上)

日本という国そのものが最近少し無神経になっているようにも思います。無神経というと皆様からは、そんなことはありません、我々は音に対し誰よりも敏感であり、隣近所がちょっとでも音を立てれば、騒音と決めつけ包丁を持って抗議に行くような有り様ですとおっしゃるかも知れません。また大学入試などでは、監督のため巡回する先生の足音から、屋根から溶け落ちてくる雪の音までが、受験生の集中力の妨げになると苦情が出ています。そういう意味では神経が非常に細かいと言えるかもしれませんが、私が言おうとしていることは、他人に対する気遣い、自分以外の人間への配慮がないという意味で申し上げているのです。

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例えば電車の中に乗り込んで来る若者のへッドフォンから漏れる音楽、深夜大きな音を立てて車の音楽をガンガン鳴らし走る青年などは、どの時代にもあり得る、若者であるが故の苛立ちや自己主張のひとつとして理解出来ないものではありません。しかしタクシーを待つ人のわざわざ右側に行って先に乗ってしまうような四〜五〇代の大の大人の女性や、行列の途中から強引に入り込んでいく中年の男性。年配者を立たせたままふんぞりかえって電車の座席を一人で占領する若者。お客が無いからと焦りながら車道の中央を走る空車のタクシー乗務員。これらの方々の行為は無神経と言う他ありません。しかしこれはマナーが悪いという範疇で収まるような気もしない訳ではありませんが、公平な白由競争を奨励しながら自らがその特権に甘んじている人の神経はどう考えても正常とは思えません。ましてやそれが正妻がありながら、恋人と同棲していた人物が政府の要職にある方だと聞くと、もう呆れ果てて正常な神経が麻痺していると言わざるを得なくなります。

経済の専門家の著作などによるとこの二十年間で日本における二〇%の最低所得者と二〇%の最高所得者の比率は一六〇倍もの開きが生じていると言います。その加速は特にこの四〜五年著しいように見うけられます。しかもこの恋人と同棲していた大学者様はこのような社会における貧富の差を奨励し、先頭に立って笛を吹いてきた一人であって、彼白身が住んでいた公舎の家賃は、通常の家賃の1/7〜1/10であるそうです。

私は基本的に、公民はある一定の便宜を受けるのは良いと考えております。なぜならば社会に奉仕する人々が物質的、精神的に健やかに暮らすことによって、社会により一層奉仕し、またそのような便宜を受けることで励まされ任務に集中できれば、結果として国民の利益になるだけでなく、多少はそのような旨味があるほうが優秀な人材が国家に貢献しようという気持ちになるのではないかと思います。しかし今回のような1/10の家賃を払い、高所得者としで不自由なく暮らす人間が、目夜汗水たらして働いてきた人々、そして働いている人々に対しては冷酷な競争を押し付けるだけでなく、税制上においても冷血な方針を貫いている一方、大企業や高所得者に対しては環境を好転させる政策を平気で行っていることが無神経そのものであると、私は強く今回憤りを感じた次第です。(続く)

財団法人・修養団発行「向上」(2007年2月号)より転載

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