« 温かい心を持つために願う(下) | トップページ | 日本人総中流意識を再考して(下) »

2007年9月18日 (火)

日本人総中流意識を再考して(上)

前回中年男性のゴミ漁りについて書きましたが、このことについて友人のMさんに話したところ、彼女は「ペマさん、それは確かに悲しいことではあるけれど、新宿のホームレス達は美味しいものを食べ過ぎて通風になっているという話よ」と言って慰めてくれました。私は彼女の優しい気持ちに感謝しつつ、その夜、再び彼女の言葉と、自分が見たゴミ漁りの中年男性を思い出しながら考えました。人はホームレスでいて本当に幸せと感じているのでしょうか。ゴミ漁りの生活を最善の生き方と思っているのでしょうか。

079_2

自ら宗教的な生活を選び、一切の執着を捨てて出家し、全ての実世界を超越した所に自らを持っていこうとしている、ジャイナ教、ヒンドゥー教、仏教の行者であれば、そのような人生観に基づいて生きることは可能でしょう。しかし私には日本のホームレス達は、私同様の凡人にしか見えません。

そして凡人即ち普通の人間であれば、誰しも尊厳と誇りというものを持っているはずです。ただ食べるためのみに生き、そして太っていることが幸せの条件になるのであれば、他の動物とさほど違いがないのではないでしょうか。

昔の日本には「武士は食わねど高楊枝」という言葉がありました。その子孫である人々が人間としての誇りと尊厳を失ってしまったら、あるいは自分自身のプライドのみならず他の人間のプライドに無神経になってしまったら、人間は智性、理性、感性を失い、動物化していくことになるでしょう。それに加え闘争心や他に対する思いやりの心などを失ってしまえば、ますます「けだもの」化することにつながるのではないでしょうか。

私は、日本国民と日本政府に、自らの幸せは他と共にあり、周囲が不幸になればやがて自分もそれに引きずりこまれ、やがて不幸になるという因果応報の哲学を思い出して欲しいと思います。かつて日本では国民総中流階級という時代がありました。今から考えれば、それは大多数の人々が満ち足りていて幸せであったと言う意味であったのです。つまり戦争に負けた日本の指導者達は人の苦しみや悲しみをよく理解しており、国民全体が満ち足りて安心して暮らせる社会そのものが真の国力であることを悟った結果であったのかもしれません。昨今、勝ち組・負け組の二極化を当たり前とする論調がまかり通っていますが、家族であれば弱者でも切り捨てることが出来ないように、一国においても弱者を切り捨てて強者のみが幸せになれると思っているのであれば、それは幻覚・幻想であって、真の幸せは訪れてこないのではないかと思うのです。

美しい国を作るには、その美しさを味わえる心のゆとりがなければできません。その心のゆとりは、衣食住が足り、そして安全で安心した暮らしが約束され、明日への希望を持てる環境の中にこそ、生まれてくると思うのです。子供に愛国教育をするにも、その国が誇れるような国でなければ、国を信じ、国を愛するような心は育たないでしょう。同様に国民を愛せない政府は、国民に愛国心など喚起することは到底無理なことです。国民一人一人が、国が自分の生活に欠かせないものであり、自分が安心して暮らせるのは国と国の政策の賜物であるという確信を得てはじめて、国に対する信頼、愛着が生まれてくるのではないでしょうか。(続く)

財団法人・修養団発行「向上」(2007年3月号)より転載

|

« 温かい心を持つために願う(下) | トップページ | 日本人総中流意識を再考して(下) »

幸せって何だろう?」カテゴリの記事