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2007年9月27日 (木)

世界宗教はありうるか(下)

仏教は南方仏教、北方仏教、密教などに分けられ、北方仏教の中でもチベット仏教を始めとして各国の宗教がそれぞれの特質を持っています。チベット仏教に至っては、大きく四つσ宗派が存在し、またそれぞれの宗派はいくつも枝分かれをしています。しかし外から見るとチベット仏教はひとつに見えますし、チベット仏教徒が他の宗派や宗教と関わるときは、不思議とチベット仏教に戻れるのです。しかし内側から見るようになると、あのお経の唱え方がどうのこうのと文句を言ったり、ご本尊や守護紳のことになると理屈を越えて感情的にすらなるのです。

日本の宗派についても、外国人や異教徒から見れば、最初は皆一つに見えるのですが、宗派間においてはまるで別のもので、うちの宗派とよその宗派で分かれて壁を作っています。

私たちはキリスト教は皆一つで、ローマ法王が全てのキリスト教徒のトップであると信じこんでいますが、キリスト教徒同士はそうは見ていません。

外国に行くとダライ・ラマ法王が仏教のトップであると思って下さる人が多いのですが、当然、仏教国においてはそうはいきません。

これらの例を見ても、それぞれ自分の価値観や信仰を他に押しつけようとしたり、互いの違いを強調したり自分の優位性を唱えたりするよりも、お互いに学びあい、そして認めあうほうが、はるかに共生の可能性が高まるように思います。ダライ・ラマ法王は、信仰を持たない人も幸せであり、信仰を持たない確信を持っていればそれを認めるべきであるとおっしゃいます。

マハトマ・ガンジーは、信仰を持たない者は他の動物と区別がなくなると、信仰をもつことの重要性を唱えています。またガンジーは全てのモラルの基礎には宗教が存在する、宗教を抜きにした倫理はありえないと強く信仰への確信を強調しています。日本では、憲法を盾に政教分離を主張する一部の左派系の学者や評論家たちが、宗教を否定することに熱心であったようです。私は今日、日本が直面している社会秩序の乱れは、宗教を否定する風潮の延長線にあるように思います。

私は小さいとき多くのキリスト教徒の菩薩的行為に救われ、献身的な介護と保護を受けたことがあります。そのせいか、私が仏教徒であることには変わりないのですが、キリスト教を始め他の宗教に対しての尊敬の気持ちも持っています。

日本は安倍内閣になってから真剣に教育改革に取り組もうとする姿勢が見うけられますが、残念なことに、私には”仏を作って魂入れず”のような、改革のための改革になっているように思うのです。目に見える登校拒否や校内暴力、学級崩壊などの現象ばかりを追っていて、原因追求をないがしろにしているように思うのです。

私は、日本再興の道は日本古来の伝統文化に基づく価値観、神仏混合の日本特有の信仰が最も現れている聖徳太子の十七条憲法や、教育勅語に救いを求めるべきであると思います。

日本が世界平和に寄与しようという気持ちがあるならば、聖徳太子の十七条憲法以来継承されてきた「和と寛容の精神」をもって世界と接することが、世界平和への第一歩になるのではないでしょうか。ガンジーやダライ・ラマ法王がおっしゃるように、各自が高度な倫理を持ち、各民族が特有の価値観を磨き、宗教をも含む他の特質を尊重していければ世界平和は幻ではなく、現実味のあるものになると思うのです。

財団法人・修養団発行「向上」(2007年7月号)より転載

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