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2007年9月17日 (月)

温かい心を持つために願う(下)

ちょうどこのニュースを聞いた日、私はあるマンションのごみ置き場近くで人を待ちながら、四十後半から五十代始めの男性がごみを一生懸命漁る姿を見て、大変悲しく思いました。どう考えてもこの男性は五体満足ではあるようですが、その行動は人間としての尊厳が失われて、ただ生きることに必死になっているように見えました。二十年前の日本でそのような光景を誰が想像できていたでしょうか。私は日本という国がそのような方々を生んでいないことに常に尊敬の念を抱きながら、私自身が豊かな国にいられることを喜び、神に感謝してきました。現在勝ち組と言われている人々は、敗け組の人が怠け者だからとか無能だからとかというようなことを、平気で口にするようになりましたが、私は必ずしもそうではなくて、このような方々を生んでいるのは社会の構造の変化、特に政治家を始めとする権力者達が無神経になり下がったからだと思います。

最近テレビなどを見ていると政策論争などにおいてコストの問題や効率の良さばかりが強調されますが、その政策は何のため、誰のためであるかという目的と、それによって誰かを幸せに出来たとしてもその副産物として誰かに犠牲を強いられ不幸にするのではないかという配慮、つまり血の通った気配りがなくなっているように思うのです。真の幸せとは何かを考えるとき、このごみを漁っている人はまだ生きているから良いのではないか、或いはこのゴミ捨て場の近くにレストランがあることがこの人にとっては幸せなことなのかもしれません。しかし私達は皆人間として衣食住に不白由しないような生活をすることは憲法においても保障されているはずです。年収一千万以上を取っている政治家や学者など生活に大きく影響を及ぼす立場にある権力者たちは、年収三〇〇万を大きく下回っている人々に、どのような生活を文化的な生活であると言うのでしょうか。

政府は高齢化社会を支えるため少子化問題を解決すべく国民に子供をたくさん産むように奨励していますが、その子供達の未来や、その子供を産んだ人々の未来について希望を持てるような政策を考えているのでしょうか。見聞するところによると今の高齢者達は不安を一杯抱えながら日々を過ごしているようです。幸せとはそのような不安の無い状態であることも一つの要素であるとすれば、権力者たちを始めこの国の人々はもう少し他に対する温かい人問的な神経を遣ってもらいたいと願っています。私は幸せになりたいと思って帰化の道を選択しましたが、その私の憧れの日本は何となく私の願いとは反対方向に傾斜しているように思います。それでも国際社会全体から見ればまだまだ私は幸せな方であると自分では思っていますし、だからこそこの状況が悪化しないことを切に願っているのです。勿論他力本願ではなく幸せになるため自らも努力しなければと思い、ここにこうして愚痴をこぼすのも、私はこの国そしてそこに住む一人としてこの叫びが権力者の耳に届くことを心から祈願しているのです。

財団法人・修養団発行「向上」(2007年2月号)より転載

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