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2007年10月

2007年10月30日 (火)

奉仕の意味を考える(下)

しかし昨今、NGOやNPO(非営利団体)が法律で規定されると、税制上の優遇だけでなく、国や地方自治からの予算を当てにするようになった団体も少なくありません。さらに団体によっては巨大化したことで、政治家たちに票を集める手段として利用されたり、逆に圧力団体化する現象も起きているように思います。

私は、ボランティア活動に対しては税金の免除や、活動に対するある一定の監視と保護は必要だと思います。しかし、ボランティアという名目のもとに、国民の税金が特定の人々の主観やコネクションで遣われることには疑問を感じざるを得ません。ボランティア活動はあくまでも自らの白由意思で、自分の時間と財産を自発的に提供する行為でなければなりません。

子どもたちが奉仕活動するために授業時間を割いたり、或いはそのような精神を養わせるための一つの奨励方法として単位を与えることは良いのですが、これを義務化することは、健全なボランティア精神に反することであると思います。

政府や地方団体が、制度上ボランティア精神を促進するような環境を整備し、奨励することは大切ですがぺその活動はあくまでも個人や企業の任意の自発的行為に委ねるべきだと思います。

企業やお金持ちの社会貢献、社会への還元としての行為を奨励するにも、国や地方団体は表彰をすることで栄誉を与え、周知する程度にとどめるべきでしょう。そうでない限り、真のボランティア精神が失われ、ボランティアのためのボランティアになってしまうでしょう。

また国や地方自治体の助成金などを当てにするボランティアは、私はボランティアとは言えないのではないかと思うのです。

例えば大学を卒業した人や定年になった人が、交通費の他、現地の人々と同程度の生活を送れる給料で働くのならボランティアと言えるでしょう。しかし現地の人々よりもはるかに多い給料を取り、気晴らしのために隣国のより豊かな国々でレジャー楽しむ費用まで負担してもらうようでは、ボランティアとは言えないのではないでしょうか。

冒頭にも申し上げたように、私自身多くの方々の支援を受け、ボランティアの恩恵をたっぷり受けてきた人間の一人として、ボランティアの有難さが身にしみています。この地上が完全に極楽にならない限り、奉仕の精神とその実践は極めて重要であると思っています。だからこそボランティア精神を大切にし、ボランティアつまり奉仕の意味を大切にしなければ、ボランティアそのものがなくなってしまうのではないかと危機感を抱いています。

※財団法人・修養団発行「向上」(2007年11月号)より転載

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2007年10月29日 (月)

奉仕の意昧を考える(上)

最近、NPOという非営利目的の団体が増えつつあります。本来であれば役所が行うべきサービスの一部を委譲され、市民自らが社会に貢献することが流行っています。また少し勢いが衰えてきたとはいえ、ボランティア活動が日本で流行しています。いろいろなパーティーや行事に参加しても、ボランティアという言葉を連発するNGO(非政府組織)の方々と出会うことが多くなりました。大学ではボランティア活動が単位として認定され、ボランタリズムやボランタリー論などをテーマにした講座が成立するほどに、高い認知度を獲得しています。

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私自身は人生の半分以上がボランティアを受ける側の立場にありました。難民としての救済を受け、また教育も受けさせていただき、ボランティアの精神とそれを実践する人々に、感謝と尊敬の念を強く抱いています。

私の場合には、インドの難民キャンプで生活し、難民学校へ通い、西洋のボランティア団体の好意でミッション系のインターナショナルスクールに入学できました。

日本へ来てからは、大学・大学院の学費や生活費も日本人のスポンサーのご慈悲によるものでした。

その後、ダライ・ラマ法王の代表として仕事を始めてからも、日本の各宗教団体をはじめ、有志の皆様のご援助をいただきました。インドの孤児のホームや難民学校の体育館の建設、井戸掘りなど衛生面での教育や農業の振興をはじめ、自動車修理などの手に職を持たせるプログラムを実現できたのも、ボランティアの方々のお陰でした。

そのようにボランティア精神にどっぷりと浸かった生活をしてきた私は、昨今の日本のボランティアのあり方について、少し疑問を感じるようになりました。

本来ボランティアというものは、自分の時間や財産を少し削って、社会に奉仕したり、他の人がやりたくない仕事や危険な仕事を進んで行うことです。仏教でもキリスト教でもイスラム教でもこの精神を非常に大切にしています。仏教では六波羅密行の一つとして、二五五〇年前からこの奉仕の精神の大切さを説き、実践をしてきました。

またモルモン教やイスラム教では、収入のいくらかを自発的に教会や貧しい人に寄進することになっています。シーク教徒の寺院などでは異教徒にも衣食住を無料で提供するため、信者の寄進は重要な役割を果たしています。そうした寄進の中でも、最も尊く、難しいことは自らの命を多くの人々のために捧げることでした。

従ってボランティア行為は、あくまでも自らの大切な時間、財産、時には命さえ見返りを求めず捧げることであるはずです。(続く)

※財団法人・修養団発行「向上」(2007年11月号)より転載

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2007年10月12日 (金)

「小泉改革」の呪縛解け (下)

日本のため内閣改造に勇断を

八月十五日靖国神社を参拝しだ国会議員団の代表格の島村代議士は安倍さんの非参拝に対し、安倍さんらしくないとコメントしていたが、私は内閣改造においては安倍さんらしさを打ち出し、安倍さん自身が思い浮かぶ国家像の形成のために捨て身の覚悟で安倍さんの思う通りの、安倍さんならではの政治で勝負に出るべきだと思う。

今回、民主党が勝ったきっかけは小沢代表の政治生命を賭ける意気込みであったと思う。安倍首相は勇気を持って目先のことだけではなく日本国の将来のため、やるべきことをやるという姿勢を国内外に示し、そのため「構造改革」などという言葉の魔術から解き放たれて自由に行動すべきであり、そうなることを一国民として切望している。

※世界日報2007年8月22日付より転載。文中、肩書き等は当時のままとなっています。

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2007年10月11日 (木)

「小泉改革」の呪縛解け (中)

「小泉改革」こそ自民党の敗因

私はたまたま今回安倍さんとは違う政党から立候補し、現政権の内政問題などに関しては批判をしてきたが、安倍内閣そのものに対しては私の期待通りではないにしてもよく頑張っているほうだと思っている。そして、少なくともあれだけ安倍さんのことをぼろくそに悪く言っているメディアと自民党に対しては、自分たちの反省をしてもらいたい気分である。

小泉前総理とメディアは自民党をぶち壊したのみならず、日本の将来の指導者たちの道も塞いでしまった。本来であれば平沼赴夫元通産大臣あたりが総理大臣になり、安倍首相が二、三回主要閣僚を体験してからでも年齢的には遅すぎず、むしろ日本の将来にとってはその方が良かったかもしれない。

だが小泉純一郎氏とその周辺の人々は改革の名の下に安倍さんを担いでしまい、今日に至って安倍さんが本当に自分の思うような真心のこもった政治を妨害しているのはむしろ彼らであるように思う。今回安倍首相が率いる自由民主党が負けた原因となった政治の現象は小泉内閣のツケであり、むしろその原因と責任は彼らにあることをメディアも正確に検証すべきであろう。

私はテレビを視ながら自民党の中から安倍おろしの動きが出れば、むしろ安倍さんは衆議院を解散する構えを見せたほうが自民党の議員たちはびびって逆に安倍政権維持に必死になるのではないかと思った。現に今、安倍さんが辞めるとしたら、本当に将来に対して野心と夢を持っている政治家は今は引き受けないだろうし、そうなればかつて自民党の副総裁などを経験し、YKKの一員であった山崎拓さんあたりを中心に暫定内閣でも作るしかないだろう。

そのような政権に世論がどう反応するかは別問題である。いずれにしても政治は安倍首相が内閣を改造して続行する方向で動いているようだが、メディアと安倍おろし勢力は今後も手を緩めず、さらに安倍潰しのためあの手この手を使ってくだろうと思う。が、安倍さんは逆にいつでも辞めてやるくらいの強気で臨んで欲しいと思う。(続く)

※世界日報2007年8月22日付より転載。文中、肩書き等は当時のままとなっています。

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2007年10月10日 (水)

「小泉改革」の呪縛解け (上)

遺憾なマスコミと自民の姿勢

参議院選は民主党の圧倒的勝利で終わった。私も大変貴重な体験をさせて頂き皆様に心から感謝申し上げたい。特に私に一票を投じてくださった読者には私の力が及ばなかったことをお詫び申し上げたい。私にとっては大変実り多い体験であったし、いずれまたこの選挙を通して失ったもの、得たものを総括し皆様にも何らかの形でご報告したいと思う。

取りあえず外見的に失ったものは選挙費用として掛かった供託金を含め千五百万円ほどの大金と五キロの体重である。お金のほうは党と有志の方々のご厚意によるもので、私は当初から出来るだけお金の掛からない選挙、そして借金をしない前提で活動していたので幸いに大きな損害も無く、終わったとほっとしているが、一方において職業としての政治を目指すには今の日本で金の掛からない選挙などというのは極めて難しいことがわかった。

もうひとつ今回の選挙で学んだことは有権者にとって候補者の政策や経歴などはあまり重要でないことである。そのことの良し悪しはともかく、今の日本において選挙を左右するのはメディアであり、国民の関心事は目先のことと波に乗り遅れないことである.ように思う。

私は自分が選挙で負けたことよりも遺憾に思うのは、選挙が終わって、あれだけ安倍待望論を作り上げ太鼓を叩いたマスコミと、それに乗った自民党までが一変して安倍批判に転じたことである。安倍さんに問題となった閣僚の任命者としての責任があるのであれば、その安倍さんを持ち上げ、安倍さんでなければこの日本に、自由民主党に未来が無いようなことを言って、彼を総理にした人々の責任は誰が取るのだろうか。(続く)

※世界日報2007年8月22日付より転載。文中、肩書き等は当時のままとなっています。

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2007年10月 9日 (火)

精神病と糖尿病に自覚症状は無い? (下)

かつて大英帝国はインドを二百年間、植民地支配しました。この植民地支配という行為自体は今日的価値観から考えて許せないことですが、大英帝国が残した建物や道路などは、その後のインドの遺産になっています。インドは今でも英国時代の建物を修理し、道路も最近まで修理しながら重宝がって使ってきました。

私が日本に来て子どもながらに感銘を受けたことの一つは、観光バスや地元の数少ない住民しか通らないような山奥の道路が整備され、崖が崩れないようにセメントが塗ってあったり網が張られたりしていることでした。また大学に通学しながら、四年間、病院で住み込みの生活をしながら奉公をさせて頂き、一九七〇年代に生活保護を受けている人々や高齢者に対する医療や福祉が充実していることに対して大変感激したことを覚えています。そして海外から来る友人、知人などに自慢するように報告したものでした。

一九八○年代の始め頃になり、私の周囲の日本の若者の中には、数力月働いて失業保険を申請し、それを元手に海外旅行に精を出す者が何人もいました。こうした人々の姿を見て、いずれこの人たちが日本のせっかくの良い制度をつぶさなければ良いが、と内心祈るような気持ちになったことがあります。

だんだんと人口が都会に流れ、兼業農家などが少なくなり、家業を継ぐというような伝統もなくなってきています。遺産相続制度も平等の原則にしたがって、すべての子どもが平等に権利を主張し、兄弟が醜い争いを繰り広げるのも、ますます目にするようになりました。一方、親の介護に対してはこれまた平等の原則で、それぞれが自分が介護に来られない言い訳を多く述べるようになりました。土地の値段が上がり、相続税を払うよりも売り払って、生き延びた片親をマンション住まいにするか施設に送り、残りのお金を分割して、中には海外旅行やブランド品に変えてしまった人々もいることでしょう。

この時期あたりから「恥の文化」「義理人情の文化」は徐々にブランド文化にとってかわり、二宮尊徳や宮沢賢治に代わってグッチ、ディオール、シャネルが新しい価値基準になってしまいました。

そして一九九〇年代に入り日本は二大政党化病にかかり、二大政党制が定着すれば日本は素晴らしくなるという神話を信仰するようになりました。

小沢一郎氏が主役となって政界再編成の名の下、政権がどんどん変わり、総理大臣が権力者ではなく、権力者の操り人形にされてしまいました。政治家たちが権力闘争で遊んでいるうち、官僚に対して指示を出す人も監督する人もいなくなったため、国をなんとか支えようとしているうちに権力を持ってしまった官僚に対して批判が集中し、国を支えてきた優秀なエリートたちのプライドをことごとく傷つけました。

また新たに権力者として登場してきたメディアは、発行部数の売上と視聴率の競争に没頭し、半径五百メートル内の出来事と皮膚感覚、視覚など五感のみを満たそうとし、目先のことしか扱わなくなりました。結果としてメディアの誘導により、政治家も次の選挙のことしか考えられなくなったのです。これらの現象はまさに歴史上消えていった帝国の運命にそっくりです。

武力によって侵略され征服された民族は、その屈辱的体験から再び復興するのですが、母国語を失った民族は永遠に滅びています。今、日本では言葉を職業にする人々が得意となって日本語をぶち壊しています。この現状を、日本の皆様はどう見るのでしょうか。

財団法人・修養団発行「向上」(2007年10月号)より転載

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2007年10月 8日 (月)

精神病と糖尿病に自覚症状は無い? (上)

チベットには「精神病患者は本人が自覚しないのが病である」という諺があります。私は採血をすると血糖値が高く、医師から糖尿病と診断され、薬を飲んでいます。現代医学の進歩のお陰で、私は現在、病人としての扱いを受けていますが、これが五十年前であったらどうだったでしょう? 少なくともチベットにおいては病人とは断定されず、健常者として振舞えていたでしょう。とにかく病気に関して自覚が無いのは困ったものです。

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国家や社会に関しても、私は似たような症状があるような気がします。

私の専門は政治学ですので、過去の歴史から学びながら、現在の世の中の動きを見て、ある程度先を予測するのが仕事です。その職業的感性のせいかもしれませんが、私の目には今の日本が国家として衰退の道を歩んでおり、社会、家族までもが崩壊への道を辿っているように見えるのです。

歴史上のどの民族も国家も、繁栄、発展の道を進んでいる時は、人々が前向きであり、行いも大胆であったように思います。ですから私達は、かつての帝国が繁栄したときの建造物や芸術作品を見ても、それを物語っていると感じるのです。

日本においては、おそらく東京都庁が最後の大規模事業ではないでしょうか。古代ローマや中国の歴代皇帝、あるいは日本の戦国武将たちの建築物と東京都庁を比べ、東京都庁を歴史に残る建築物として評価するかどうかは別です。あれだけ賛否両論の中、当時の鈴木知事がかなり思いきって建築を推進した時、あの建物の芸術的評価はしないものの、子孫に残せる、そして地震や災害にも耐えられるものを造ったことには賛成で、私は鈴木知事に工ールを送りました。

もちろん私としては、もっと日本ならではの伝統文化を誇れるようなものにして欲しかったし、またエネルギーの消耗の見地からも、もう少し大自然を尊重するような姿勢が表れても良いと思いました。

いずれにしても私がここで申し上げたいことは、東京都庁以後、日本は公のものに対し、節約というよりも「ケチる」文化が優先しているように思うのです。中央においても地方においても公共事業がどんどん減らされ、そのような一時的な「ケチる」政策に、マスコミは拍手を送り、国民は票を与えています。「もったいない」精神は節約すべきところと、してはならないことの区別、つまり遣ったお金が生きるか生きないかが基準であって、その時安くてもすぐ壊れて作り直さなければならないものにお金を遣うよりも、子や孫、曾孫の時代まで使えるようなものを作れるかということが、価値基準となるべきです。(続く)

財団法人・修養団発行「向上」(2007年10月号)より転載

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