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2007年10月29日 (月)

奉仕の意昧を考える(上)

最近、NPOという非営利目的の団体が増えつつあります。本来であれば役所が行うべきサービスの一部を委譲され、市民自らが社会に貢献することが流行っています。また少し勢いが衰えてきたとはいえ、ボランティア活動が日本で流行しています。いろいろなパーティーや行事に参加しても、ボランティアという言葉を連発するNGO(非政府組織)の方々と出会うことが多くなりました。大学ではボランティア活動が単位として認定され、ボランタリズムやボランタリー論などをテーマにした講座が成立するほどに、高い認知度を獲得しています。

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私自身は人生の半分以上がボランティアを受ける側の立場にありました。難民としての救済を受け、また教育も受けさせていただき、ボランティアの精神とそれを実践する人々に、感謝と尊敬の念を強く抱いています。

私の場合には、インドの難民キャンプで生活し、難民学校へ通い、西洋のボランティア団体の好意でミッション系のインターナショナルスクールに入学できました。

日本へ来てからは、大学・大学院の学費や生活費も日本人のスポンサーのご慈悲によるものでした。

その後、ダライ・ラマ法王の代表として仕事を始めてからも、日本の各宗教団体をはじめ、有志の皆様のご援助をいただきました。インドの孤児のホームや難民学校の体育館の建設、井戸掘りなど衛生面での教育や農業の振興をはじめ、自動車修理などの手に職を持たせるプログラムを実現できたのも、ボランティアの方々のお陰でした。

そのようにボランティア精神にどっぷりと浸かった生活をしてきた私は、昨今の日本のボランティアのあり方について、少し疑問を感じるようになりました。

本来ボランティアというものは、自分の時間や財産を少し削って、社会に奉仕したり、他の人がやりたくない仕事や危険な仕事を進んで行うことです。仏教でもキリスト教でもイスラム教でもこの精神を非常に大切にしています。仏教では六波羅密行の一つとして、二五五〇年前からこの奉仕の精神の大切さを説き、実践をしてきました。

またモルモン教やイスラム教では、収入のいくらかを自発的に教会や貧しい人に寄進することになっています。シーク教徒の寺院などでは異教徒にも衣食住を無料で提供するため、信者の寄進は重要な役割を果たしています。そうした寄進の中でも、最も尊く、難しいことは自らの命を多くの人々のために捧げることでした。

従ってボランティア行為は、あくまでも自らの大切な時間、財産、時には命さえ見返りを求めず捧げることであるはずです。(続く)

※財団法人・修養団発行「向上」(2007年11月号)より転載

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