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2008年2月12日 (火)

私の「大好きなこの国」はどこへ向かおうとしているのか (1)

私は『正論』の一読者としていつか自分の原稿を掲載出来る日が来ないかと、長い間願っていた。そこで今回は、私なりの日本への思いと日本国民に訴えたいことを以下のようにまとめてみた。

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私は昭和40年12月11日に来日し、以来42年を日本で過ごしているが、その間たびたび諸外国にも出掛ける機会に恵まれ、日本を「中から、外から」見られる立場にあった。昭和40年代は学生として埼玉で過ごしたが、その頃の日本はまだ経済的にも完全に復興していず、外国に出掛けられる人も医師や議員、あるいはロータリーのメンバーというような限られた人であった。羽田空港では外国へ旅立つ人を見送る人々の万歳の歓声が良く聞かれた。多くの方々から餞別を贈られ、帰って来ては報告会を開き、貴重なジョニーウォーカーと外国製の煙草を振る舞い、それぞれが自分が見聞した知識に基づく体験を報告し、会場の人々は鉛筆をなめながらメモを取り、外国からの情報に熱心に耳を傾けていた。つまり日本人は国民全体が向上心に満ちており生活の向上に、国として国際社会での地位の向上に熱心な時代であった。

少なくとも埼玉の毛呂山町においてはその時代、まだ各家庭に電話が普及しておらず、有線電話を通して連絡を取りあっていた。有線電話は有線放送にもなって学校の休校や町の催事、NHKのラジオ放送から体操の音楽が流れ、皆で揃って体操をしてもいた。つまり地域共同体が今日よりはるかに連帯感を持っており、「様々なもの」を共有していたのである。また、学校は勿論のこと工場や様々な職場においては皆様が名札をつけ、ユニフォームを身につけて食堂で社長も社員も同じ物を食べ、同じテーブルについていたことには当初驚いた。日本はとても平等な社会であると思ったのだった。 学校が休みのときはスポンサーであった病院の院長の病院で働きながら日本語の練習に励んだ。その頃、気付いたことは、日本の事務所は役所も含めて個室が殆ど無く、大きな部屋の中で仕事を分類して各班、各係、各部署が単位になって机が配列され、中央にある回転式のファイルなどは関係者全員が共有出来るようになっていたことである。部長や局長などが両脇に引きだしのある大きめの机を持ち、机の上には未決と採決の書類箱があった。課長クラスの人が入り口に向かって座り、両脇に係長、主任の順に席が決まっていた。私達留学生から見ると、軍隊のようなこの規律が日本の産業と社会をみごとに支えていたように思えた。学校へ行っても職場へ行っても、役所へ行っても至る所に「忍耐」とか「努力」とか「整理整頓」などの標語が貼られていた他、その時、その年の長期短期の目標をスローガン化したものが貼られてもいた。 (続く)

※『正論』(平成20年2月号より転載)

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