私の「大好きなこの国」はどこへ向かおうとしているのか (3)
しかし大阪の万博を境に日本は極端に変わってしまったような気がする。あの辺から私達留学生の中では、日本人はバナナになったと表現するようになった。つまり皮膚の色は我々アジア人と同じだが、日本人は何でも西洋の真似をし始め、髪の毛をわざと茶色く染め日本語で唄う時も外国人のような発音をしたり、何でも「本場アメリカでは」と言い始め、た。更に1980年代になり、日本人は会社でも個人の家でも個室を増やし始めそれぞれが自分の世界にひきこもり、個性と個人主義を旗印に学校や職場ではユニフォームを嫌い始め、評論家達はユニフォームが個性を殺しているとか、口を開けば「個性と自由」という言葉をマントラのように唱え始めた。
上記のように西洋化が進み、個室や個人の自由を尊重した余りに子供達は自己の殻に閉じこもり、個室のドアを閉めて登校拒否までするようになり、親と子、家族の歓談が少なくなりそれぞれがウォークマンを耳に掛け、自分の世界に入りこんだ。
何はともあれ、私が目撃した日本人の勤勉さと真面目さ謙虚さによって、日本は世界一安全な国、世界第二位の経済大国そして世界一位を争うほどの長寿国家にもなった。それは日本人のみならず他のアジアの国々にとっても大きな励ましとなり、日本は模範国家となった。アジアの国々にとって日本は理想郷に近く、マレーシアのマハティール首相を始め、アジアの指導者達は「ルック イースト」の政策とともに、日本を目標とし、日本から学ぼうと言うのが常識になった。私自身この日本に住み、日本人と関わることが出来たことを誇りに思った時だった。
アジアの国々から見れば、西洋の技術や経済学などを押し付けられて反強制的に従わざるをえなかったことが多く、日本の明治維新以来行ってきた、自ら進んで西洋の知識や物質文化を導入し、消化して日本に相応しい部分を取りいれて成功したこととは異なる経緯があったからである。このようにして日本が、戦争に負けて国が廃塩と化した所からたった25年で国を再建、更に発展させたことに対し、敵も味方も大きな驚きを覚えたのである。
その後、世界中で日本研究が盛んになり、ある人は日本の復興を奇跡と呼び、別の人はボーゲル先生のようにジャパンアズナンバーワンと称して日本の実績を称えると共に日本に対する警戒を促し始めた。そしてアメリカを始め諸大国は日本がかつて戦争で成し遂げなかったことを今度は経済でやり遂げようとしていると決めつけ、日本を弱体化する活動が展開された。日米貿易摩擦はまさに貿易戦争そのものであったと言える。戦争である以上勿論負傷者も発生している。以来日本は徐々に弱体化の道を辿りつつあるように私には感じられる。 (続く)
※『正論』(平成20年2月号より転載)
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