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2008年3月30日 (日)

中国はチベットに何をしたのか (上)

 三月十四日にチベットのラサで起こった反中デモは抗議行動が激化し、武装警察などが鎮圧に当たった。激化した騒乱は周辺地域にも及び、四川省では八人が死亡、青海省の自治州では僧侶約百人が僧院に監禁されたことに反発し、僧院裏の丘に登って花火を打ち上げるなどした。甘粛省の省都蘭州では、学生百人以上が抗議デモを展開した。

 僧侶の中には、抗議のため自決した人もいたようだ。本来チベット仏教では自殺はよくないこととされているのだが、彼らはまさに「決死の覚悟」でその手段を選んだのだ。

 そもそもは武装警察の方が先に民衆の列へ突っ込んできたことが原因である。街中を戦車が走り、当然、威嚇も含めた意味で武装警察は民衆に対して発砲している。「大規模な騒乱」と言ってもチベット人側は石を投げるくらいしかできない。

 ラサでの抗議行動は、初めは小さな集まりだった。中国では五人以上が一カ所に集まることは、“集会”とみなされ、政府に許可を得なければならない。当然三月十日にチベット人が記念行事や集会を行なうことは、中国側は把握していたはずだ。

 このような小さな集まりに対して武装警察が「今すぐ解散しろ」などと言って民衆を棒で殴ったりし、民衆を挑発するようなムードを作っていたのではないかと思われる。

 武装警察とは郡小平の改革以来、人民解放軍を減らして組織されたもので、軍人と警察の間に位置し、国内の反乱や暴動を鎮圧するために存在している。特にチベットの動きに対しては敏感で、今回の混乱においては武装警察の動きに民衆に対する挑発があった可能性も否定できない。

 しかも、オリンピックを控えたこの時期に起こったにもかかわらず、中国政府のチベット管轄当局は「十七日の夜までに降伏すれば容赦する。期限までに投降しない犯罪者は法に従って厳しく罰する」と発表し、「十七日まで待つ」という姿勢を見せた。

 弾圧の前科がある胡錦濤

 犠牲者については正確な数は不明だが、三月十七日の時点で少なくとも五十から百名、場合によってはそれ以上の犠牲が出ているとみられる。

 通常、中国でこのような暴動や軍・武装警察による鎮圧が起こり負傷者が出ても、詳細が発表されるケースは少ない。

 今回は早い段階で中国側に十一名の死亡者が出たとの発表が出された。どうも不自然で、勘繰れば中国側が暴動の激化、拡大を目論み、戒厳令に持ち込もうとしているのではないかとも考えられる。

 なぜなら、この暴動がさらに激化すれば、中国側にとって「好まざる」人物を一網打尽にすることができ、チベットに戒厳令を敷くことができる。となれば、オリンピックの時期に世界各国の人間が中国へ観戦に来たついでにチベットを訪れることも禁じられるし、チベット支援者の出入りを禁じる口実もできるのである。中国にとってはある意味好都合なのである。

 一九八九年の三月にチベットで激しい独立運動が起こった際、当時チベット自治区の共産党書記に就任していた胡錦濤が中央政府からの命令を受けて独立運動を弾圧し、戒厳令を敷いたという前例がある。

 当の胡錦濤は先日の全人代でチベット問題に関し「チベットの安全なくして中国の安全もない」とどちらとも取れるような発言をした。対チベット政策では融和的な態度を取っていた胡耀邦を師と仰ぐ胡錦濤は、解放促進派と慎重派の両方に足を置いているといえる。

 しかし八九年のチベット弾圧で胡錦濤が共産党内で名を挙げたことは事実であるし、チベットにいた頃の部下が今でも胡錦濤を支えている。特に二期目の現在は人民解放軍の支持を得るためにも強硬派にならざるを得ない部分がある。

 これらの点から勘案すると、おそらく胡錦濤は今回も同じ手を使って戒厳令に持ち込もうとしているのではないかと考えられるのである。 (続く)

※ 『WILL 』(2008年5月号)より転載 

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