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2008年4月28日 (月)

神秘の国チベット 弾圧の中での青春

亜細亜大学新聞 昭和47年5月15日付

ペマ・ギャルポ君、彼は一九五三年六月八日チベットカンム地方ニャクルングに十二人兄弟の三男として生まれた。昭和四十年十二月日本に来てから、毛呂山中学校・飯能高校を卒業し、今年本学法学部に人学した。彼は昨年本学雄弁会主催全日本高等学校弁論大会に参加し、特別賞(毎日新聞新聞社杯)を受賞している。以下の文は彼が”チベットの生沽様式””日木に来た理由””本学を選んだ理由”について書いたものである。



※画像をクリックすると記事の原文を読むことができます。なお、原文での曖昧な文脈や、送りがな、読点など推敲したうえで転載いたしましたこと、ご了解願います 

神秘の国チベット 弾圧の中での青春


ペマ・ギャルポ (法一)

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生活様式

チベット人の生活様式について語るのは、大変難しい事なのです。というのは現在チベット人は一つの民族として、一定した生活を営むことは不可能になっているからです。そこで私は三つに分けて述べてみたいと思います。

第一に、中共軍が侵略してくるまでは自給自足の生活をしていました。侵略される以前は大変平和な、慎ましい毎日を過ごしていました。農牧民が人口の九〇%以上をしめ、また仏教の国で信仰心の深い人々であっただけに、生活は仏教の教えに従い、人道主義的な風俗、習慣につつまれた生活をしていました。

このように、虫も殺せない民族でしたので他国を侵略しようとか、支配しようと言うような意志は国民には持てなかったのです。そのため、他国との交流もほとんどなく、その結果二千年以上の歴史と伝統を守ることができたのではないでしょうか。

しかしその半面、外国と国交関係がなかったため、国際的政治感覚を失い、他の国々にとっては神秘的な国になっていたのです。

ここでチベットの歴史について語ると長くなるので、日本の皆さんにチベット人民が、平和な生活を営んでいたという証拠に、第二次世界大戦中の事を少し述べてみようと思います。

第二次大戦中、日本は中国・モンゴルなどチベットの近くの国々で争ったのは、ここで私が改めて言うまでもありません。しかし、私は日本人が第二次大戦中にチベット人を殺したことも、またチベット人に殺されたことも聞いたことがありません。ですが、チベットのこのような平和な生活も、他国によってめちゃくちゃにこわされてしまいました。

一九五九年、虫も殺せない人々が、祖国防衛と平和を守るために中共軍に抵抗したことを知らない人は少ないでしょう。そして、その結果として弱者が敗れ、十分の一の人々が難民となり、他の九割が捕虜となったことも皆さんが知っていることと思います。

第二に、チベットに残っている約九割の人々の生活について述べたいと思います。これは一口で言うとすれば、中国の一方的な支配を受け「奴隷」と同様の生活をしているのです。

中国ブームの今日、私がこんなことを述べても本気にする人がいないかもしれません。中共は現在強大な国となって、それに逆らう国もいなくなっています。しかし、なぜ中共があれほど大きく、強くなったのだろうかと皆さんは一度でも考えたことがあるでしょうか。それは小さな国々を支配し、それらを搾取しているからなのです。

第三に、チベット国外にいるチベット人の生活についてですが、今日チベットの亡命者達は世界中にちらばっています。しかし大部分はインドにいるのです。

中国側は亡命しているチベット人が、皆、上流階級の人達であるかのような”でま”を言っています。でも本当は家族そろって亡命できたものはほとんどいません。この人々はその日その日のパンのことを心配していると同時に、祖国がかつての平和な国になるのを夢み、昼も、夜も絶え間ない努力を続けています。

また、国際赤十字を初めとする多くの団体や個人の援助を受けているにもかかわらず、未だに二千人以上の学校教育を受けられない子供達がいますが、このような問題は徐々に解決しつつあります。チベット人が人並みの生活を営むことができるようになるのはいつか分かりません。しかし、その日は必ずくるでしょう。

日本に来た理由

なぜ私が日本へ来たかということですが、これを説明するために歴史をさかのぼる必要があります。一九四九年に中華人民共和国が成立して以来、周りの小国に次から次へと侵略を始めた。現在中共の七億とか八億の人民がどうのこうのといっていますが、満州・モンゴル・ウィグル・チベットなど小民族を除くと中共の人口はどうなるでしょうか。

チベットは文化。伝統すべての面で中国とは異なっています。チベットは一九五〇年に中共軍に侵略され、一九五四年の十七条の条約に一方的に調印させられてしまったのです。それにはチベットの自治を認め、チベットを他国の侵略から守るとする内容があった。ところが、中国にとって約束は何らの価値を有するものではなかったのです。

それは中・ソ、中・印紛争にも如実に表れました。中国はこれらいずれの国とも条約を結んでいたのは、皆さんもよく知っていることと思います。

中国はチベット人から土地を始め、その他の財産を没収してしまったのです。これも改革のためだと思い我慢したのですが、中国はチベット人の思想や、言論の自由をも認めず、子供達を半強制的に親の元から離し、洗脳し始めでしまったのです。

チベット人にとって精神の一部だった寺など、伝統的なものは次から次へと破壊してしまった。このようなことは他国の人には、とても理解できないことでしょう。とにかくチベット人民も限界が来たため、中共軍に抵抗を試みたのです。その結果、前に述べた通りになってしまいました。

私がインドに亡命していた時、日本のある医師が、西洋の国々でチベットの難民達に教育を受けさせていることを知り、同じ人間としてまたアジア人として自分のできることをしたいと思い、私達を日本へ招いてくれたのです。

チベット人は日本人を非常に高く評価しています。現在のチベットと同様に、日本でも暗黒な歴史の一ページがあったと思います。しかし日本人は堂々それを乗り越えて輝かしく発展をしてきました。

武器を持って人の命を奪うことは最後の手段でなければならないと思います。ですから日本のかつての行為を賛美するわけではありませんが、あの時イギリス・フランスを初めとする、西欧の国々によって支配されていたアジア諸国にとって日本は夢と希望を与えたのです。

また日本人は、自分たちの手で自分達の意志で早くから西欧の文化を取り入れたりするなど、大変意欲があり盛んな民族であるところに、密かに憧れを感じていたのです。

亜細亜大学を選んだ理由

なぜ亜細亜大学を志望したかと言うと、これにはいくつかの理由があります。まず私にとっては日本の学校の勉強だけではなく、人々の生活様式・考え方などについて知る事も、大切な勉強の一つであると思います。

私の国は今有名校卒業生のエリートを必要としているのではなく、自分の身体で体験を学び知識を実践できる人間を必要としているのです。別に私はそう言うエリート達を僻んでこのようなことを言っているのではありません。それはエリートコースで行けば、社会的地位も名誉も早く勝ち取ることはできるでしょう。しかしこう言う人々は最後まで大衆の支持を得られるでしょうか。

前に述べたような理由から、私は多くの考えの違った国や社会から来た先生・友達と語り合いながら勉強して行きたい、そのようなことを考え自分なりの調査をして、亜細亜大学を選んだのです。

そして、私は国際法を勉強したいとずっと以前から思っていました。何度も見捨てられようと私は正義を信じています。自分達の最後の友達となってくれるのは正義であり、法であると思います。

現在中国側が言っていることと、チベット人が言っていることに大きな違いがあります。そして私はチベット人が語っていることが正しいと強く信じています。真実は一つしかありません。そこでもしチベット人が語っているのが間違いであったとしたら、私達チベット人は嘘を語り、全世界の人々をだましていることになります。もしそうならばこれは重大なことです。ですから中国のこともよく勉強し、さらにその真実を探らなければならないと思います。

幸い亜細亜大学には、自分で教えていただきたいと思うような先生方もいらっしゃいますし、それに中国関係の資料もかなりあるようです。私はこれからもまたアジア・アフリカ諸国が強くなるときが来ると思いますし、また来なければならないと思います。

私は別に民族主義を主張し、西欧を支配しようというような意味ではありません。平和な世界を実現するために、全ての国々が互いに対等な力をもつ必要があると思います。つまり勢力均衡の問題です。

亜細亜大学に入り、自分なりに世の中をどうどうと渡れるだけの知識と勇気を得て、世のよい僕になれるよう努力するつもりです。これから四年間いろいろな人達と共に語り合い、学び合い、充実した学生生活を送りたいと思います。学生としての義務と責任を十分果たし、仲良くやって行きたいと思っております。

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