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2008年8月 1日 (金)

携帯電話文化と若者 (下)

 戦後一時、アジア全体において、科学的という現象、つまり目で見え手で触ることが出来、量で計れるようなものを重視し、それ以外の精神的なものに関しては、迷信と言って片づけてしまう風潮が流行りました。中国などでは社会主義にまで「科学的」という形容詞をつける有り様でした。言い換えれば、哲学的・宗教的、目に見えない要素に関しては軽視する傾向が広く認知されました。人の気持ちなどは当然計れるものでもありませんし、配慮するということも無意味になってきたのです。

 私は最近頻繁に報じられるいわゆる通り魔事件も、この延長線にあるのではないかと思うのです。自分の気持ちがいらだっていたからとか、ムカツクなどの理由で簡単に人を殺してしまっても、メディアや社会がそれを容認するような風潮があり、かえってそのような事件を多発させる要因になっているように思われます。深く考えることが面倒で、まるで気晴らしで他人の命を奪うことに一理があるかのように理解を示すことは、自分の行動に責任を持ち、自分の行動の結果まで考える人を敬遠しているように見えます。

 きまじめ堅くて生真面目な人を敬遠する姿勢が、結果的には、逆の軽はずみな行動や、ただ目立とうとする人を増長させているのです。

 自分の学生たちを見ていると、携帯電話で話すときは明るく言葉も豊富で楽しそうに見えますが、いざ顔を合わせて会話をすると、ろくに相手の目も見ないような話し下手に変身してしまいます。つい先程まで携帯で楽しそうにしゃべっていたのに、皆の前で発言させようとすると体がこわばり表情まで固くさせてしまいます。携帯電話などの道具を通して会話をするのが上手であっても、実際に人と会って協調性を持って周りを意識しながら、あるいは相手の話を聞いてそれに反論したり、賛同するような表現力を失って生きているように思います。自分と話し相手の立場や年齢などに準じて会話をすることも下手なようです。またその人たちは、自分の本心を明かす真の友人や先輩を持つことも苦手なようです。

 私は大学のゼミなどで一方的にしゃべる代わりに、彼らに発言させるチャンスを与え、何とかして公の場での自己表現力を持てるようにと努めていますが、時々、彼らにとってはそれが苦痛になっているような感じがして、それこそ気の毒に思うこともあります。

 質問がありますか、という問いかけに対しても「大丈夫です」という、私としては理解に苦しむ返事が返ってきます。自分に敬語をつかったり、先生を「さん」づけして呼んでみたりすることにも悪意や大した意図はないようです。

 私の祖国では、国が権力によって母国語(民族の言葉)を忘れさせようとしていますが、日本ではお互いの不注意や無関心で母国語を粗雑にさせています。そうした現象を目の当たりにすると、私は心が痛みます。

 言葉は私たち皆が持っている最大の武器であり、自分たちの文化そのもので、美しいものです。言葉は民族の命であり、人の品格のバロメーターでもあるのです。言葉は人を傷つけたり幸せにしたりすることの出来る、私たちの最も大切な財産のひとつです。その言葉を大切に扱って欲しいと、私は切に願っています。 (了)

※ 『向上』(2008年8月号)より転載

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