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2008年10月16日 (木)

北京オリンピックとチベット問題

 京都仏教会の皆様には以前も講演をさせていただき、大変お世話になっております。またこの度はチベット問題、特に先程起きましたチベット本土における一連の抗議デモの直接的原因についてご報告する機会を得たことを心から感謝申し上げます。日本と中国は友好関係にあり、特に京都の仏教関係者と中国との関係が良好であることは十分承知しており、そのこと自体に害を及ぼすような気持ちは全くありません。しかしチベット問題が「問題」である以上、当然二つ以上の相争う論点があるわけで、私がこれから述べるものはあくまでもチベットの見解に基づくものであり、私が知る限りの事実です。私にこのチャンスを下さった事務局長を始め関係者が特に私の意見に賛同していらっしゃるものではないことも付け加えたいと思います。

 中国当局者は長い間、有史以来チベットは中国の一部であると言い張っていたが、最近は自分たちの根拠の不十分さに気がついたのか元朝以来という風に主張が変化した。確かにモンゴルの歴代ハーン(王)たちは、チベット仏教を信仰しチベット政治にも影響を与えたことは否定できない。しかし元朝はモンゴル人の王朝であり、また元朝が中国であるということはマッカーサーが日本を占領したからアメリカが日本のものであり、アメリカの歴史は日本の歴史の一部であると言うようなもの。元朝の根拠が薄れてくると今度は清朝にチベットを支配したという説を新たに持ち出して来たが、これも実質的にチベットを支配した実態が無く、チベットに駐蔵大臣なるものが駐在していたことと、二度ほどチベット政府の要請において清朝軍がチベットに入ったことを根拠としている。しかしこれもチベット国の同意と要請に基づくものであり、日本国にアメリカ軍が駐在すること或いは朝鮮戦争に国連や大韓民国の要請と合意によってアメリカ軍が韓国に入るものと変わらない。更に駐蔵大臣をチベットに置いたことが根拠になるとすれば同様の立場にネパール国やイギリス、後にインドも同類の外交使節を置いたのでそれらの国々もチベットに対し、同様の権利を主張した筈である。元朝と清朝のチベットとの関係は歴代皇帝とダライ・ラマ法王個人の檀家とお寺の関係であり、中世でよく見られた、バチカンとイタリアの関係に似たものであった。

 そもそもチベットにおける中国の宗主権という言葉自体、イギリス領インドの総督、力ーズンが同国の議会で証言したように便宜上発明した言葉で、英露協商においてチベットの宗主権は清朝にあることを明記することで南下しようとした帝政ロシアと、新たな覇権国家として台頭してきた大日本帝国のチベットにおける影響力を排除するためだった。仏教会の方々に関わりの深い河口慧海、成田安輝、多田等観、青木文教、矢島保治郎、能海寛、野元甚三、西川一三、そして我が恩師である木村肥佐生先生たちは決して純粋に仏教だけのために僧侶姿に扮装して進入したのではない。特に多田等観先生、矢島保治郎先生、木村肥佐生先生はチベットの社会にも大きな影響を与えるほどチベット社会へ浸透しチベットの政治に名を残している。矢島先生は軍事顧問としてチベットの軍の近代化に貢献し、青木文教先生はダライ・ラマー3世に現在のチベット国旗のデザインについても進言するほど信頼を得ていた。多田等観先生はセラ・ゲシェ(セラ寺の大博士)として知られるほどチベット語で弁論をするまでになり、チベットのインテリ層からも尊敬されるだけでなく信頼された。木村肥佐生先生はチベットの政治と社会の改革を試みていた若者たちや、当時のチベットの貴族たちにもその語学力などを重宝がられ明治憲法のチベット語訳などを行って多くのチベットの方々から信頼され同胞としての待遇を受けていた。また先生はチベットの貴族たちの子供に英語を教えるなど、上層部にも信頼されるようになりこれらの先生方の働きは当時の日本政府の外交政策や軍事政策と無縁ではなかった。そのお陰でチベットは第二次大戦の際、のらりくらりといいわけをしながら連合国の協力要請をうまくかわし、日本と戦うことが無かったので、日本人とチベット人はあの大戦においてもお互いの血を流さずに済んだ。実際日本寄りの政策を取ったが、今回は詳細について述べることは控えたい。当然中国の一部ではなかったため、中国軍の一員として駆り出されることも無かった。中国の言うように、チベットが中国の不可分の一であれば当然チベット人もあの戦争に駆り出された筈である。

 戦後アジア、アフリカで次々と新たな国が誕生し、シナ大陸においても中華人民共和国が国民党を追放し、政権の座についた。1949年新たに誕生した中華人民共和国は我が祖国の正当な領土(チベット、台湾、琉球なども含む)全てを回復するまで革命は終わらないと宣言した。それと同時に二度にわたってラジオを通してチベットから帝国主義者を追い払い、チベットの主権を守るという名目で4万人の人民解放軍がチベットを占領した。当時チベット全土に5名ほどの白人(帝国主義者)がいたらしい。勿論五名の帝国主義者を追い払うための4万人の出動は侵略以外の何者でもない。チベット軍は一応抵抗しながら、チベット政府はネパール、モンゴル、インド、イギリス、アメリカなどに協力を要請し、国連に訴えようとしたが、インドのネール首相が西洋人によるアジアヘの介入を嫌い、イギリスやアメリカに動かないよう要請するとともに自ら周恩来と話し合いでチベット問題の円満解決を図る姿勢を見せた。外部の援護に期待を出来ないチベットは代表団を北京に派遣し、中国から半強制的に17条の条約を押し付けられた。この17条の協定には、
第四条チベットの現行政治制度に対して中央は変更を加えない。ダライ.ラマの固有の地位及び職権にも中央は変更を加えない。各級官吏は従来通りの職に就く。
第八条チベット軍は逐次人民解放軍に改編し、中華人民共和国国防武装兵力の一部とする。
以上の二項目からわかるように残念ながらこの時点でチベットは一地方政府になり下がり、中国が中央政府となった。ただここで明確なことは、チベットの政治制度に何らの手も加えないという約束とチベット独自の軍隊が存在したことである。これに従ってダライ・ラマ法王を始めチベットの歴々が中国を訪問し、1959年の憲法制定にも参加した。その後中国の方から最初は東チベットから仏教の僧侶を非生産的集団と決めつけ、また宗教そのものをアヘンであるという観点から弾圧を始め、チベットの民衆との衝突が勃発した。最終的にその手はダライ・ラマ法王に伸び、1959年3月10日法王に対して護衛なしで人民解放軍の司令部に来るよう要請があった。民衆は法王の身を案じて体を張って法王の司令部行きを阻止した。これが3月10日決起記念日の始まりである。この時法王はインドヘ亡命し以来49年間チベット人民は3月10日にチベット国内外で抗議行動を続け、中国のチベット支配の不当性とチベット人民への弾圧、文化への破壊を世界に訴えてきました。ダライ・ラマ法王はインドに亡命すると共に17条協定の無効性を発表し、以来チベットは占領下の国家となった。国連を始め世界各国において今日まで中国のチベットにおける弾圧、大虐殺への批判など50前後の決議が採択されている。7千の寺院と神殿の破壊、120万の尊い命の犠牲、言語・宗教に対する弾圧、経済的搾取更になぜ最近ダライ・ラマ法王が独立ではなく、自治を求めるようになったかについて、本来であればその経緯と真相について述べるべきだが、スペースの関係上割愛し、今回の一連のデモについて報告をしたい。

 上記のような背景のもと今年も3月10日チベットの僧侶たち2〜30名がデモを行おうとしたところ数百人の公安当局によって包囲され、挑発的な行為を受けた。今まで49年間の3月10日のデモ行進と異なり今年は特に4つの新たな要求があった。第一に2007年10月ダライ・ラマ法王がアメリカ議会の最高栄誉賞受賞に関連して祝賀会を企画して逮捕された僧侶たちの釈放、第二に2年前に完成した鉄道によっておよそ400万人の観光客が訪れたにも関わらずチベットの人々にとって何の利益も無く、物価が上昇し宗教活動は観光のアトラクション化され、中国からの移民が押し寄せ、またチベットのあらゆる伝統的な道具や仏像などを買い漁ることへの不満。第三にチベット語と仏教の信仰に対する構造的弾圧による大虐殺の停止。第四にチベット人は中国がオリンピックを開催する国家として人権や宗教への自由など期待したにも関わらず、その反対に中国政府はチベットの神聖な山から聖火ランナーが走り出すこと、マスコットにチベットのカモシカとパンダを利用することによってチベットが中国の一部であることを印象づけ政治的に利用する事への不満が挙げられた。これに対し中国は蛇を棒でつついて叩くようにデモ隊を挑発し、結果的に中国側の発表で20名、チベット亡命政府の発表による200名以上の死者と数千名の逮捕者が出ている。勿論中国が数える20名はチベットデモ隊によって殺された人数であり、当局によって殺されるのは正当な公務であるため数えられていない。今回は240万平方㎞、現在の中華人民共和国の4分のーに相当するチベット全土に広がり、3月19日ダライ・ラマ法王が自らの退位をほのめかしてチベット人の自制を求めることで収束した。勿論中国側も雲南軍区、四川軍区などから応援を増強することで治安の維持にあたっている。中国のデモ隊への対応は世界中から非難を浴び、イギリスのチャールズ皇太子、スウェーデンのグスタフ国王、チェコのハベル大統領他イギリス、ドイツ、フランスなどの首脳もオリンピックの開会式を欠席すると意思表示し、世界各地から選手たちを始め大勢がこれに賛同している。日本における善光寺様のご勇断も世界中に良い反響を及ぼした。このような動きを背景に北京政府はデモ隊の主役と決めつけたチベット人30名に対し、形式的な裁判を行い終身刑から19年の刑を言い渡した。また胡錦涛の日本訪問二日前の5月4日、ダライ・ラマ法王の代表団を中国が受け入れ、対話の再開を印象づけた。6月20日に1150数名の逮捕者を釈放したと発表している。6月下句か7月中にはダライ・ラマ法王の代表団と正式な会談を継続すると言っている。

 このような動きは肯定的に見るべきだが、チベット問題そのものは中国が完全な民主国家になり、法と民族自決権を尊重するような国にならなければ根本的には解決しない。そのため引き続き世界の人々の良識に基づく大きな関心と支援は不可欠である。日本の皆様特に仏教徒の皆様のご理解が大きな意味を持つと思う。何卒今後もご関心を寄せて頂くよう心より祈願している。

※ 京都仏教会 『京仏 夏季号』(2008年8月25日)より転載。

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