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2008年10月26日 (日)

民主主義の限界(下)

 日本の政治を見ても同様です。自民党の総裁選に立候補した人たちは、政策に長け、強い指導力と確固たる支持基盤の上に立つことよりも、アメリカ同様、大衆に受けるとか、メディア好みであること、中には女性であることを総理大臣になるための資格であるかのように強調する候補者さえいました(もちろん私は、女性でも男性でも、総理大臣にふさわしい人間であればそれで良いと思います)。女性であることが特別な要素であるかのように言うのも、私は不自然に感じます。もちろんこれらの候補者一人一人は将来有望で、可能性に満ちた政治家には違いないのですが、この時期に日本をリードするにふさわしいかどうかは別です。その観点から考えるべきだと思うのです。国民の関心を高め、マスコミ対策として多数の候補者を出して総裁選に注目を集めようとした努力は評価するにしても、政治として未熟で、ある意味では国民を馬鹿にし、政治を軽く見ているようです。

 それに対抗して民主党は、国民の注意を引くために小沢さん自ら自分の選挙区から離れ、大都会で与党のリーダーと一騎打ちをするために立候補するという勇ましい行為は、本気であるなら賛辞に値するものとして受け止めるべきでしょうが、私がひねくれ者であるせいか、これも政治的パフォーマンスで、ブラフ(はったり)であるように思えてくるのです。もしそうであるならこれまた国民を愚弄し、政治を単に数を獲得するだけの行為で決着させようという考えで、究極的には政治への不信を増す要因であることに違いありません。このように世界の政治の流れを見ていると、政治の自由が抑圧された中で、政治への参加の大切さを痛感し、命懸けで戦っている人たちがいる一方で、政治がゲーム感覚でいつの間にか軽視され、国民は自らの権利を放棄するか、またはマスコミや操作された世論によって誘導され、振り回されている人々がいます。

 この両方の共通点は、真の民主主義が希薄となり、主権者である国民の手から政治をコントロールする力が失われつつある、ということです。

 今日の議会制民主主義が確立するまでには、多くの先人たちが命を賭け、多大な犠牲を払ってきました。それにもかかわらず、いわゆる自由社会においては、かつてジョージ・ワシントンが心配していたように大企業が資金を提供し、広告を通してメディアを牛耳ることによって世論を操作し、格好良い政治家、演説のうまい政治家など、感性にのみ訴える政治家や政党を支持させることによって、国益よりも企業益を優先させるように政治を操っています。

 このように、過去から受け継いできた伝統や、文化などの財産の蓄積を継承することも、次世代のために蓄えを残すことも考えず、今の目先のことだけを政治の課題にしているような現象は、もはや民主主義そのものが形式化され、空洞化しているように私には見えるのです。

 政党の連立化も流行のようです。私自身は選挙をする前から政党が連立し、連立候補を立てるのであれば、個々の政党の存在理由がないように思います。選挙の結果、政策や政治理念の近い政党同士が政策協定を結んで連立内閣を構成して政治を行うことは、政治の安定を図り、それぞれの政党の公約を実現するための手段として許されることであっても、選挙の前から連立ありでは、選挙の意味がないように思うのです。

 国民全ての幸せを得るための手段として、国民の総意が繁栄されるような政治を行うためには、もつとまめに公民館や学校などの公共施設を使って、政治家一人一人が国民の前で論争しあい、政治をより身近なものとする必要があります。

 国民一人一人が、自国の過去に対して誇りを持ち、現在に対して安心、安定し、そして未来に対して望みを託せるような杜会を構築するためには、高額な資金をかけたマスコミによって誘導される政治と決別し、大資本家に頼らねばならない政治を拒絶し、誠実な政治を裏づける実績を持った経験豊かな人々に、私達の生活と未来を託すべきではないでしょうか。

 真の民主主義とは何かをもう一度考えるべきではないでしょうか。 (了)

※『向上』(2008年11月号)より転載。

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