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2008年11月

2008年11月22日 (土)

正義は、われにあり

ダライ・ラマ法王十四世実兄

ギヤロ・トゥンドゥップ閣下に聞く

〔通訳 ペマ・ギャルポ〕

─ 閣下はダライ・ラマ法王のお兄さんですが、自分の弟がダライ・ラマであったことが分かったときに、どんなお気持ちでしたか?

ギヤロ・トゥンドゥップ閣下(以下、閣下)  チベットにおいては生まれ変わりということはどこでもしょっちゅうありますので、生まれ変わり自体は驚くべきことではありませんが、それがダライ・ラマだとすると別です。転生の調査団(註1)が来たときは、彼らは身分を隠していたので、気づきませんでしたが、弟がダライ・ラマの転生者だと確定したときは驚き興奮しました。とはいえ、当時、法王は二歳、私は七歳半。まだ子供ですから法王と分かった後でも一緒によく遊びましたよ。

─ ダライ・ラマ法王はチベット人にとってはどんな御存在なのですか?

閣下 宗教的には全ての人たちのラマ、つまり師であって、政治的には全ての人々の王です。ダライ・ラマ制度は三百年以上続いています。チベット人はもとよりモンゴルなど全世界のチベット仏教の信者たちが第一の指導者として尊敬しています。

─ 一九五九年、法王が亡命を余儀なくされたときは、どのような様子だったのですか。

閣下 私は既にインドにいました。亡命をインド政府が受け入れてくれました。たくさんのチベット人が殺されて法王も無事着かれるか心配でしたので、お迎えしたときは正直ほっとしました。私は五二年にチベットを離れていましたので、七年ぶりの再会でした。

─ 閣下はぺマ・ギャルポさんたち少年を日本など諸外国に送られたわけですが、それはどういう意図からだったのですか。

閣下 法王と共に十万人のチベット人が亡命しました。寺を失った僧侶たちを束ねること、高齢者への福祉、青壮年たちの働き口、そして子供たちの教育が重要な課題でした。残念ながら当時、亡命先で高等教育を施すことは困難でした。それで日本やヨーロッパに子供たちを送りました。

─ 当時、日本に対する印象は?

閣下 我々は日本についてはよく知っていました。ダライ・ラマ十三世の頃から日本とは深い関係にあります。第二次大戦前から我々は日本と関わっています。チベットは奥地で孤立していましたが日本のことはよく知っていましたし、日木が好きでした。第二次大戦のときにアメリカのルーズベルト大統領からチベットに対してチベット経由で中国の蒋介石政権に武器を送ることを許可してほしい、という要請があったんです。アメリカはビルマの援蒋ルートに代わってチベット経由を考えたのです。しかしチベット政府とチベット国民は中立を守ってその要請を拒否しました。その一事をもってしてもチベット人がいかに日本が好きだったか分かるでしょう。そのことはいまの日本人には覚えておいてほしいと思
います。

─ それは十三世と多田等観(註2)などの日本人との交流が記憶にあったからですね。

閣下 そうです。十三世はチベット軍の近代化をはかり、軍事顧間に日本人を迎えていましたから。何よりも日本も仏教国であることが信頼醸成において大きかったと思います。

─ ペマさんたちを送り出すにあたって、託したことは?

閣下 第一の目的は本人が教育、教養を身につけること、第二は日本語と日木文化を勉強してチベットと日本の橋渡しをすることでした。そして彼らはそれをやり遂げ、今も継続しています。

─ 大成功だったわけですね。

閣下 ええ、もっと送るべきですね。

─ 昨年、中共政府は、あろうことか、活仏は中共政府が認定するという制度を作りました(註3)。

閣下 共産主義は宗教を否定する。片方においては宗教を認めず、もう片方においては宗教に介入するというのは矛盾です。一方において憲法では信教の自由を認めているという。ならば宗教のことはそれを信仰している人たちにまかせればいいのであって、無神論者が口を挟むことはまったくおかしいことです。

─ 法王猊下は文化的虐殺といわれましたが。

閣下 私たちチベットは人口も少なく大した力もありません。智恵も足りません。しかし正義だけはチベット側にあります。私たちはチベットの文化、伝統を維持し、それを継承することに力を入れてきました。私たちが求めているのはチベット人の正当な権利を認めてほしいということであって、それ以上を求めているわけではありません。チベット人の正当な権利の中には、自分たちの伝統、宗教を守り、それを次の世代に継承する教育などが含まれています。
一九七九年、私は中国の鄧小平と会い、そこからダライ・ラマ法王代表団と北京政府との接触が始まりました。以来二十八年間、私は毎年中国に行つていますが、中国政府に対して、お互いに話し合い、チベット人の民意を尊重すべきだと言い続けています。二十八年の間には紆余曲折がありました。しかし我々としては忍耐をもつて接触を続けています。特に今年は大きな出来事がありました。そのことによって様々な誤解も生じております。彼らはダライ・ラマ法王の白い帽子を黒く塗っております。それは真実ではありません。法王は平和的解決を目指してあらゆる努力を続けておられます。
日本はアジアのことを一番よく知っており、国民の教養も高い国です。日本の皆さんに訴えたいことは、アジアの平和と安定のために日本はもっと積極的なかかわりを持っていただきたいということです。そして多くの日本人にできるだけチベットに行っていただき、またインド亡命政府のダライ・ラマ法王に会っていただき自分の目で真実を見ていただきたいと思います。

(文責・編集部。本稿はチベット自由人権日本百人委員会=ペマ・ギヤルポ代表幹事=発足シンポジウム参加のため来日された閣下に、北京五輪前の七月三十一日に取材したものです。掲載が遅れましたことを閣下、そして通訳頂いたぺマ氏、関係各位にお詫び致します。)

(註1)チベットではダライ・ラマをはじ
め高僧は「活仏」として次の後継者が選
ばれる。伝統的な方法に則って先代の転
生者、つまり生まれ変わりを探して後継
者に認定する。

(註2)多田等観(ただ・とうかん)明治
23年秋田生まれの僧侶、仏教学者。チベ
ットに渡り、ダライ・ラマ十三世の寵愛
を受け、約10年間の修行の後、チベット
大蔵経全巻をはじめ膨大な資料を日本に
持ち帰る。

(註3)中共政府は二〇〇七年九月、「チ
ベット仏教活仏転生管理規制」という法
律を制定した。「活仏」の認定を中共に
よる許可制にするというもの。これより
先、ダライ・ラマに継ぐ地位のパンチェ
ン・ラマ十世の後継者として一九九五年
にチベット亡命政府(ダライ・ラマ法
王が認定した少年は、その直後両親と共
に行方不明となり、今日まで消息不明の
まま。一方で、中共政府は独自にパンチ
ェン・ラマ十一世を認定した。

※『日本の息吹』(平成20年12月号)より転載。

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2008年11月12日 (水)

「チベット」というメッセージ 

 二〇〇八年四月、長野で行われた北京五輪の聖火リレーが大きな混乱もなく"無事"終わった。が、走者を務めた著名人の幾人かがテレビの中で「最後まで気持ち良く走りたかったのに、ちょっと邪魔が人り……」などと発言しているのを見て、ペマ・ギヤルポさんは大いに落胆した。今この瞬間にも、虐められ苦しめられている多数の人がいることを知らないはずはないのに、そのことには誰もひと言も触れることがなかったからだ。
「優しくない」
そう思った。それまではファンですらあった有名人のあの人この人が、偽善者にさえ見えたと言った。
 「個人の問題というより日本人全体の民意のレベル、チベットで起こっていることへの無知・無関心の現れではないでしょうか」
 こう筆者が口をはさむと
「かつて一二〇万人が虐殺されたことは知らなくても、ほんの少し前に、百数十人が殺され、多数の人が投獄されたことは知らないはずはないでしよう。それなのにひと言も言わないということは、それを肯定していることになるのでしょう」
ギヤルポさんは静かに反論した。

本質

 チベットは古代から独立した国であった。そして中国に対して長い間精神的に指導的な役割を果たした時期もあった。モンゴル人の元朝、満州人の清朝は、ともにその王室がチベット仏教に帰依し、ダライ・ラマとは法王と檀家のような関係に立っていた。一時、清国の支配を受けたものの、中国で一九一一年に辛亥革命が勃発、清の滅亡により再び独立国に戻る。しかし、一九五〇年、中国人民解放軍による侵略と軍事制圧を許す。さらに、一九五五〜五九年「中華人民共和国政府による併合に抗議したチベット動乱が勃発、インドに逃れたダラィ・ラマ法王のもとでチベット亡命政権ができて、一〇万人をこえるチベット人が亡命した。
 こんな風にかいつまんで国の歴史に触れたあと、ギャルポさんは中国との関係を断言するような口調で要約した。
「中国は、二十一世紀の今日でもいまだに"植民地"支配し、言論を統制している。そんな国はもう世界中どこにもない。これが問題の本質です。多くのチベット人や民主化を求める中国人を投獄してまで「オリンピックを開催する国家の品格を間題にすべきです」

難民

 ギヤルポさんは、今は四川省に併合されている新龍を本拠地にした東チベットの一地方の領主の家に生まれた。四、五歳の頃に、一家は中国軍との戦闘に巻き込まれ、故郷を離れた。首都ラサへの「巡礼者」に身をやつし、世界の屋根・ヒマラヤ山脈の背後に広がる平均標高四〇〇〇メートルのチベット高原を、西へ西へと逃げのびて行った。
 「ダライ・ラマ法王のインド亡命」の知らせが届いた時、ギャルポさん一家も「もはやチベットに正当性のある政府はない。法王のあとを追って亡命するしかない」と意を決した。吹雪のヒマラヤ山脈を越え、国境を越えてインドヘ入った。
 その後、ギャルポさんは、チベット難民キャンプで少年期を過ごすことになる。やがて、チベットを支援するため諸外国で留学生を受け入れる制度がスタートした。英国・スイス・カナダ・日本など世界各国ヘチベット難民が旅立って行った。ギャルポ少年もその候補に選ばれた。「同じ仏教国がいいだろう」と両親。「戦争に敗れたのに国を再建した立派な民族」と兄。ギャルポさんは「日本」を選んだ。十二歳の少午が四人の仲間と羽田空港に降り立ったのは、一九六五年のことだった。それから今日に至るまでの四〇数年の日本の生活が始まった。「本来の日本と日本文化」をこよなく愛するギャルポさんは、日木の国籍を取得する。

仏教国

 チベットが仏教的であり、平和主義的であることが、隣国中国からの侵略の隙を作ったのではないかと、ギヤルポさんは考えることがある。
 「チベットでは、あらゆることに仏教的な考えがいやというほど浸透しているのです。先日、ある僧侶の説法を聞きに行きました。最近のラサで起こった一連の事件をどう見るか、という質問に答えて『全て無常です。平和な時もあり、戦争の時もある。すべて歴史の中の流れの一環です。そしてさらに現在チベットに生まれてきている人々は、輪廻の中で死んでから中国人に悪事を働いた者で、今その浄化の過程にあるのです』とまで言っていました。これでは何も変わらず、何も変えないでいいことになる訳ですね」
 人々の心の中に根付いている輪廻転生の感覚は、変革や敵対の力を削ぐ一方、苦難を耐える力を与えてくれているのかもしれない。ギャルポさんの話が続く。
 「かつて、仏教、特に大寺院の政治への影響力も絶大でした。『平和、平和、何が何でも平和』一点張りで、国連加入の話も非仏教国の組織に入ることはいかがなものか、と反対、英語学校も水力発電も反対、あれやこれやで国の近代化の阻害要因になってしまったようです。それに一国平和主義というのでしょうか、鎖国のような政治体制を続けて、周辺諸国が大きく変化する中で置き去りにされてしまったのですね。さらに、男子の三〇%は僧侶でした。鉄砲を持つ代わりに祈りと修行に明け暮
れる。僧侶になるための修行は、特に密教では「敵を愛すること、少なくとも敵
とニュートラルになること」です。祈りと修行が国の中心にあるのです」
 中国から植民地支配を受けるようになった要因の一つはチベット自身のこうい
うあり方そのものにあったと、ギャルポさんは忸怩たる思いに捉われる。

本当の文明

 近代化に後れをとり、それが現在の国の苦境を招いた一因だったにせよ、結局はチベットの人々はそうした代償を払いながらも、早急な近代化を選択しなかった、と言つた方がよいのかもしれない。
 「チベットの人々は、古代以来五〇〇年の長きにわたって、自分たちの世界で平和に生きることができました。それは本当に素晴らしいことでした。ホテルはなくても旅人を温かく迎え入れてくれる家はどこにでもありました。大きな家族が伝統的な価値観の中で助け合って暮らしました。近代化文明は、こういう「より高度な文明」「本当の文明」を壊し続けてきています。チベット人の選択と苦難は、現在の人類に対して意味深いメッセージを発信していると思います」
 そこでひと息入れてから、ギャルポさんは
「決して犬の遠吠えだとは思わないでくださいね」
そう言って茶目っ気ある表情になった。

 最後にギャルポさんの著書である『おかげさまで生かされて』という本の中の文章を引用しておきたい。(・・・この六〇年、中国政府は「チベットの領土」を物理的に支配しながらも「チベットという国」を完全に呑み込むことはできませんでした。それは「チベットの人々」が確固たる意志と方向性を持ち続けたからです。私はある意味では、チベットより日本の将来を憂えています。チベットは失われたアイデンティティを必死で取り戻そうとしていますが、何がアイデンティティかも気付かぬまま、日本はそれを失おうとしているのです・・・)

(文・高野公一)

インタビュー誌※「Ripers」(2008 Vol.29 SUMMER)より転載

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