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2009年1月27日 (火)

日本の難民事業本部の功績 (上)

 新聞報道によると、二〇〇八年の日本政府への難民認定申請者が千五百人を越えるようです。その中で約五十名が認定される見込みで、その他四百名は特別在留資格で穏便に滞在許可が得られそうです。前年は八百十六名の申請でしたので、約二倍の増加です。増加した理由としては、ビルマ(ミャンマー)の軍事政権による民主化運動への弾圧や、スリランカの内戦などが挙げられています。これに伴い日本政府は、法務省の難民審査関係の職員を増やすなど前向きに対応しており、一九七八年以来、約一万一千人に難民の認定を与え、彼らの定住促進に力を入れています。
076_2  一九七五年、インドシナ戦争終結後に政治的迫害を受けたり、共産体制に馴染めず国の将来に不安を持った多くの人々が小舟で外国へ脱出し、日本、オーストラリアなどに上陸し、難民としての救済を求めました。彼らはボートピープルと言われ、日本でもマスコミが関心を示したものの、具体的に難民を助ける法的な整備も政策もありませんでした。

 そのような状況の中で、財団法人アジア福祉教育財団の理事長で、当時国会議員として活躍していた奥野誠亮先生が日本政府、特に当時の外務大臣・園田直氏に働きかけ、一九七九年日本政府は難民対策の充実と強化を図るため、内閣にインドシナ難民対策調整連絡会議を設置。その発案者であった奥野先生のアジア福祉教育財団が業務委託を受けて、同財団内に事業本部が設置され、難民の全面支援が始まりました。

 まず同年暮れに兵庫県姫路市に姫路停留センターを設立し、翌年には神奈川県大和市に大和定住センターを追加。一九八三年には増え続ける難民の長期滞留化に対応するため、品川区に国際救援センターを開設しました。

 私は日本の難民認定を受けたわけではありませんが、インドから発効された難民パスポートで特別在留資格のもと四十年滞在することが出来ました。難民パスポートは通常のパスポートとは異なるため、様々な制限と不便がありましたが、日本で生活し、学べたことに対し、日本の政府と国民に感謝の気持ちを抱いてきました。一九七二年の日中国交正常化に伴い、私の日本滞在が危うくなったこともありましたが、幸いにして灘尾弘喜先生、坂田道太先生、長谷川俊先生、奥野誠亮先生、岸信介先生らに救済していただきました。

 世間では、日本は難民受け入れの数が少ないとか、対応が不十分であるとか色々批判があります。しかし、例えば奥野先生のところでは、難民の職業相談と雇用促進、日本語の学習相談と学習支援を行っています。その中には日本語相談員を配置し、難民定住者や日本語ボランティアをはじめ、学校、地方公共団体、企業からの問い合わせに応じた日本語学習の情報提供、専門的な指導、教材の援助などが行われています。また日本語での生活のための指導も行っています。その他、難民認定申請に対する援助や助言とともに、海外の難民支援事業として、難民キャンプ滞在中の人々や母国へ帰国しようとする難民の状況、諸外国における難民の受け入れ事情などに関する調査などを実施し、現地での支援も行っています。 (続く)

※『向上』(2009年2月号)より転載。

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