センター試験と就職活動(上)
私が勤務している桐蔭横浜大学は、センター試験の会場になっています。私も監督という貴重な体験をさせていただいています。今年は幸いにして天候が良く、私が監督に当たった日曜日は何の問題もなく済んだことで、ほっとしました。この試験は受験者のみならず監督者にとっても大変緊張する、年に一度の、できれば避けたい行事のひとつです。
皆様も新聞などで既にご承知でしょうが、今年も英語のリスニングの試験でいくつかトラブルが生じていました。このリスニングの試験では、受験者一人一人に補聴器のような機械を与えて試験を行いますが、毎年機械のトラブルが起きています。そもそも昔は放送で一斉に流されたものですし、私はそれで充分であると思っています。なぜあのようなややこしいものにしているのか理解に苦しみます。と言うより、特定の企業の利益に絡んだ癒着の一現象ではないかとすら疑いたくなります。税金の無駄使いであるほか、受験者や監督者にとって余計な労力と精神的プレッシャーであることは間違いありません。もし文部科学省関係の方がこの記事を読んでおられたら、ぜひその正当性について教えて頂きたいくらいです。
もうひとつの疑問は、時期の問題です。今年は幸いに雪は降りませんでしたが、一年で一番寒い日、雪が降りやすいような日を選んでいることです。一、二週間早くしても、あるいは遅くしても、問題が無いように私には思えます。
今のように、ほとんどの子どもたちはどこかの大学に入れるような少子化時代では、日頃の学校での成績を重視することの方が大切ではないかと、私は思うのです。その理由は、受験のための勉強ではなく、人生のための勉強に重点を置くべきだと考えるからです。今、日本では受験が産業化されているようです。現在の受験制度では、子どもの性格、長所、短所などを掴むことは不可能です。子どもの総合的な力を評価する方法として、大学に入るまでの成績や先生達の評価をもっと信用すべきであると思います。
また今の試験では、過剰に「平等」という概念が蔓延しているため、監督側は全ての行動を秒単位で計っており、靴底が革であると歩いたときに靴音が響くためゴム製の靴を履くように指示されるほど配慮されています。しかし私は逆に、足音程度で神経を集中できないような人問は今後どのように世の中を生きていくのか、不思議に思うほどです。
また替え玉受験などを阻止するため、受験者と受験票の写真を確認しなければなりませんが、特定の受験者の脇に長く(と言っても数分ですが)いると、これもまた特定の受験者への圧迫になるので禁じられています。
もちろん鼻血を出したりした受験者にその場でティッシュなどを与えると、便宜の供与と見なされる心配があるのです。
このように試験を息苦しいものにしてきたのは、権利と平等のはき違いではないかと私は思うのです。 (続く)
※『向上』(2009年4月号)より転載。
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