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2009年5月28日 (木)

外見と先入観に弱い私達(下)

 かつてモンゴルが共産主義のもとで宗教の自由を求めて頑張っている時、彼の宗教に対する柔軟な考えは高く称えられた。ところが最近は、彼がお墓参りなどすると、仏教を贔屓しているとモンゴルの外交筋や宣教師たちから非難の声が出ている。

 私は少年時代にキリスト教の学校で学び、賛美歌を歌い聖書を読んでいた人間として、キリスト教の良い面をたくさん学び、キリスト教徒に対しても尊敬の念を抱いている。それでも、最近モンゴルで宣教活動をしているキリスト教の方々には落胆させられている。キリスト教の優れた部分を強調するのは良いとしても、仏教徒に対し非難中傷を行っているからだ。例えば、貧しいのは仏教のせいであり、キリスト教を信仰すれば現世において豊かになれるなどと言って改心させようとしている。

 またこの人たちが、大統領の仏教に対する保護に加え、大統領個人の信仰の自由までも非難していることは常識を越えている。モンゴルにとって仏教は宗教であると同時に伝統であり、文化である。長年民族の拠り所として出来上がった価値観や慣習を無理矢理変えさせようとしたり、それを無価値であると決めつけることによって、自分の宗教が正しいと言っても、私はかえって大衆の心を掴むことは出来ないであろうと思う。

 かつて、インド独立の父マハトマ・ガンジーに対して、インドで一生懸命布教活動をしていた宣教師たちが、「我々はこれだけ貧しい人のために医療、教育などの面で協力しているのに、なぜ人々は正しい神を受け入れ改心しないのか」と不思議がり、改心しない大衆の「愚かさ」を攻める発言をしたところ、ガンジーは「恐らくそれは神のせいではなく、あなたたちのやり方と動機が問題で、つまり改心させようとするその行為に問題があるのではないか」と逆に問いかけたことを思い出します。

 私達人間は、自分自身が行っていることの矛盾については殆ど気がつかないが、他人のことになると目くじらを立てて非難する。例えばアメリカ合衆国の大統領の就任式にキリスト教の牧師を招き公衆の面前で国家行事の一環として祈りをリードさせることや、バイブルに手を当てて宣誓することに関しては誰も文句を言わないし、言えないであろう。もちろん私もアメリカ人がアメリカの初代大統領以来、今日までこの宗教的、伝統的行為を継承していることには一種の尊敬の念すら抱いている。同様に、他の人々や宗教の信仰者も、自分以外の価値観に対し寛容であることこそが政教分離の基本姿勢であるのではないか。

 国家が特定の宗教を国民や、国内に居住する他の人々に押しつけたりすることは政教分離の考え方に反している。政教分離は決して宗教無視、あるいは宗教廃止ではないはずである。まして私達は他人や他の文化、制度、国柄などを判断するときに、その外見や自分の先入観だけで判断せず、中身や言動で評価すべきではないか。

 ワインのラベルを変えた外面と、同じラベルのままで中身が変わっていることくらいの区別は、自らの知性と理性を活用して判断をすべきであると強く感じる。私達の周りの様々な現象についても、同様に外見や固定概念で判断するのではなく、真の姿や実態を把握するよう努めることが、特に近々行われるであろう選挙の時など重要である。 (了)

※『向上』(2009年6月号)より転載。

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