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2009年9月

2009年9月28日 (月)

命と平和の意味(下)

 私の個人的な考えは、靖国神社に眠る方々は祖国のために尊い命を捧げた時代の被害者たちであって、いわゆるA級戦犯と称する人々も含めて、今の人間が一方的に批判や非難をしたりすることが出来ない歴史的な問題であるように思う。

 特にたった一人の閣僚が靖国神社を参拝したから異質な存在だとして報道する日本の新聞をベトナムの地で読んで、私は嘆かわしく感じた。それは私が、四十数年間この国に住み、生活し、本能的に愛着を生じてきたからかもしれない。

 時期を同じくして、私は飛行機の中で日本の自殺者についての記事を目にした。もちろん今の日本で自殺者が大きな社会問題になっていることは皆様もご承知だろう。自殺に関しては遺書などが発見されて初めて自殺と断定されており、遺書などのない自殺を含めると、自らの命を絶つ人々の数は実際その倍くらいではないかと推定される。

  また最近は、自らの焦燥、不満などから衝酌に大量殺人を引き起こすという事件も珍しくなくなった。私は、そうしたことを報道する日本の番組で、命の尊さや平和の尊さを論じる人々の言葉の“軽さ”にこそ、今の日本が逆に命を軽視する要因があるように感じた。

 ベトナムの人々を含め、実際に戦争を体験し、尊い家族の死を目にした人、或いは一日一日を生きるために必死に戦った人の方が生死の実感があるからこそ、生きること生かされていることに感謝し、一生懸命生きているように思える。

 私がベトナムで視察した戦争博物館には、アメリカ軍の武器や弾薬が陳列されていた。そこにはアメリカ人やアメリカと一緒になってベトナムと戦った国々の人々も見学に訪れていた。彼らに対して、ガイドは一方的にアメリカを責めるような発言もしなければ謝罪を求めることもしなかった。

 その時私が思い出したのは、アメリカの初代駐ベトナム大使として赴任した米軍将校がインタビューで、「かつて私は軍人としての私の任務を果たして戦った、、そして今は外交官として両国の親善のために尽くしたい」と語ったことだ。その大使を出迎えたベトナムの高官は、アメリカ人捕虜を虐待した人で、「今日、私は友人として彼を迎えに来た。虐待したことに対して後悔は無い」と言った。もしもう一回戦争になったら戦いますかという質問に対しては、「そうならないために我々は今、友好を構築しているが、もちろん国のために戦わなけれぱならない時は、軍人として戦うでしょう」と答えて、二人は固い握手をしたという。私はこの記事を読んで、感銘を受けたものだった。

 過去ばかりにこだわる者は、未来を失う危険性があるように思う。

 そのために、日本人は昭和と平成の時代に区切りをつけ、アジアの概念も改めることによって新たな対等平等の立場で、真の平和を守り、命を尊ぶ教育をするために「いただきます」「ありがとうございます」の基本から出直す必要があると考える。

 今回の総選挙においても重要な教育問遷、外交防衛問題について各政党が軽んじていることは大変残念である。 (了)

※『向上』(2009年10月号)より転載。

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2009年9月26日 (土)

命と平和の意味(上)

 この度、私的にベトナムを訪問した。私のベトナムヘの関心は、世界一の軍軍大国アメリカに負けなかった(ベトナム競争)こと、、ま た鄧小平が中国の巨大な軍事力を背景に周囲の反対を押し切ってベトナムヘ教訓を与えると意気込んで出兵したのに、逆に教訓を受けてしまった(中越戦争)こと……その祖国を守るというベトナムの人々の強い意志と精神力に触れたいと思い、春先から早々と準備をして出発した。

196_1  しかも今回は政府高官や政治家達とは一切接触せず、出来るだけ一般市民、特に若者と触れ合うことに重点を置いた。

 そして私が感得したものは、思ったとおリベトナム一般市民が中国に対して強い不信感を持っていることと、国民が一人一人強い愛国心とベトナム人としての誇りを持っていることだった。

 それと驚いたことに、アメリカ人の戦争行為そのものを侵略的と位置づけながらも、それは過去のことであるとドライに考え、これからのベトナムにとってはアメリカとの協力が重要である、という明確な考え方を持っていることであった。

 アメリカ兵によるベトナムでの残虐な行為を記録した博物館などがあっても、それは決してアメリカに対し反省を求めるとか、アメリカヘの増しみを増加させるための教育の材料にしているのではなく、あくまでも事実の証録として伝えていた。

 八月には、日本でも広島・長崎の被爆者への鎮魂の式典が行われている。これについてはNHKが海外向けの放送をしている他、外国の通信社による報道もあった。これらのニュースは、被爆者へのインタビューなどをとおしてコメンテーターが過去の戦争に対する批判、反省そして命の尊さということを重点的に表現しようとしていた。

 このこと自体は重要で、それらの行為を全面豹に否定するつもりはない。ただベトナムと比べると、日本の報道はややもすれば演出的な要素を感じさせ、かえって戦争の悲惨さや命の尊さを軽く語っているような印象を強く受けた。

 少なくとも広島・長碕に関しては日本が被害者であるはずなのに、まるで日本がこの悲惨な非人道的行為の加害者であるような錯覚さえ起こさせる報道ぶりであった。広島の慰霊碑に書いてある「我々は二度と同じ過ちを繰り返しません」という言葉を、同じニュアンスで広島市長などが得意げに唱えている姿にも、正直に言って、私は共鳴出来ないどころか、むしろ勇気を持ってアメリカに対して二度と同じような過ちを起こすな、と言うべきだと思った。そして全ての核保有国に対して、或いは核を保有しようとしている国々に対して、核兵器による人類への脅威とその悲惨さを強調して訴えた方がよいし、説得力もあると思う。 (続く)

※『向上』(2009年10月号)より転載。

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2009年9月15日 (火)

まちと私 世界の屋根から島国日本へ

 世界には色々な町がある。私が生まれたチベットでは日本の昭和60年代あたりまであった田舎の町と変わらないような定住者を中心とする農村地帯や寺院が最初に出来、その周囲に自然に発生した寺町、シガツェ、ギャンツェなどのように城を中心とした城下町も存在していた。私自身の生家は一応当時「ボタン」と言われ城または宮殿として知られていた。勿論それは日本の御所や城などのような華やかさは無かったが、一応当時珍しかったガラス窓の部屋があり、土壁で作られた4階建ては子どもの私の目には大変大きく感じていた。窓は外部からの攻撃を最小限にするため、内部にむけて狭くなっている部屋も数多くあった。チベットにおいて冬は「バ」といってヤクの毛で作った大きなテントを張って移動する遊牧民の町も存在した。これらの生活共同体には様々なまつりごとを始めとし、協同作業があり「キドゥク」喜びと悲しみつまり苦楽共の会というものが存在し、互いに助け合うことが不可欠な社会であった。しかし私は7歳でこの共同体を去らなければならず、移民としてインドへ逃れ、そこでまた別の形の町生活を体験した。インドに着いた頃最初は難民キャンプで数ヶ月生活し、インド政府が用意した仮設住宅でボランティアスタッフの温かいケアのもと家族は生活を始めたが、栄養失調から来る抵抗力低下であらゆる不調が重なり私は入院生活を強いられた。毎日部屋から運び出される遺体を見ても感覚が慣れて麻痺してしまい、自分も待っているような気にさえなった時期があった。しかしここでもすぐに生活共同体が発生し町が生まれ、様々な商売が始められ周辺からインド人の猿使い、蛇使い、果ては象使いまでがやって来て私達難民を励ましてくれた。
 1965年12月11日私は当時の羽田空港に到着し、その晩のうちに埼玉県の毛呂山町という静かな農村に案内され、以来6年間私にとって最も心の落ち着く平和で長閑な日々をここで過ごした。その当時からしばしば「日本に来て寂しくなかったか」とと聞かれたが、私は本当に寂しくはなかった。毛呂山町の人々のひとなつこい性格や誰にも声を掛け合う親密さは私の故郷チベットの町と同じであったからだった。更に進んで私達をまるで町そのもののお客であるかのように八百屋も米屋も肉屋も本屋も皆が親切にしてくれた。その頃出始めた即席ラーメンを買いに行くと、おまけとしてネギを下さったり、パン屋に行っても同様に何かおまけをしてくれたり、風邪を引いて欠席すると友達の母親がどぶろくにショウガや卵を入れたものを持ってきてくれたり、友達はその日の授業の内容や宿題を教えてくれた。進学時はこちらから挨拶をすると畑仕事を終えて帰宅する母親たちは、自転車から降りて首に巻いた手ぬぐいを取って丁寧に挨拶を返してくれたりした。やがて飯能市の高校に通学するようになってからは私達のスポンサーの病院の食堂のおばさんたちは毎朝私達5人の留学生のために弁当を作ってくれたり、特に私達は魚が苦手であったため様々な工夫を凝らして豚肉や鶏肉、鯨肉などをたっぷり入れて下さった。中学高校でも生徒達は私達を仲間として普通に受け入れ、私は中学でも高校で生徒会長や評議会議長という自治会のトップに選んでくれたりした。やがて大学入学のため東京の池袋病院でお世話になり、初めて都会へ移動しラッシュアワーも経験し、都会ではとまどいもあり、人々の流れと多さにめまいすら感じた。
 しかし一旦大学の構内や病院でアルバイトをしたりして人と接すると先輩後輩の人間関係が確立しており、そこではまた外の冷たいコンクリートの森とは違って、温かい人間のぬくもりが残っていた。しかし東京という大都会は様々なインフラ整備が整っており生活が想像を絶するほど便利で、町には季節に関係なく年中美味しいものが売られ簡単に食べられるようになった。私も大学卒業と同時に渋谷区神南でアパート生活を始め、ここでまた新たな町と出会った。当時まだ渋谷近辺には1階建てが多く頑固なトンカツ屋の親父さんや焼鳥屋のおばさんもすぐ顔を覚えてくれた。しかし日本はやがてこれらの一戸建ての個人経営の店舗が姿を消しマンションや超高層ビルがあちこちに出来て、私も大田区、品川区とマンション生活に移行していった。マンション一つの世帯数は私が子どもの頃に体験した町くらいの規模であったが、そこには殆どお互いの交流が存在せず、二年ほど前私の甥がインドから遊びに来た時エレベーターで会う人、会う人に丁寧に挨拶をして愛想良く振る舞っていた時、誰が見ても明らかにアジア系外国人に見える人から声をかけられて驚く主婦と、その主婦の驚きに目を丸くする甥をみて私はこの都会という新しい町にいつのまにか自分自身も慣れていたことに気づき、ある種の寂しさを急に強く感じるようになった。
 その後、意識的に見ていると、こちらから挨拶をしても返事を返してくれるのはかなりの年配者か子どもであることに気が付いた。しかもこの子どもが挨拶を返すとき、変な顔をする若い母親に私は大変違和感を覚え、そしてこの日本の将来についても不安を抱き始めた。
 国際親善や出会いを求めて海外旅行をしたり会費を払って合コンに参加しても、自然に自分の身近な人々と互いに目線を逸らすような社会は極めて不健康であるように思った。このような自分が毎日会っている人との会話が無い一方、家を出て施錠すると同時に携帯電話で顔の見えない相手と話し始める若者やメールに夢中になる若者の増加によって目を見て会話をするということが少なくなってきているように思う。私が少年から青年時代過ごした家には昼間は殆ど鍵が掛かっておらず、むしろ埼玉などでは店の奥に主がいて、お客がはいって声を掛けると初めて出てくるような、お互いに信用しあい信頼しあえる町であったが、最近のマンションは二重三重のロックと防犯カメラを設置しても事件が多発し、店も同様に防犯カメラを付けたり警備員を雇っても万引き、盗難、果ては強盗まで頻発している。勿論その原因は経済的理由や社会の変動など色々考えられるだろうが、私は一番の原因は人間同士のコミュニケーション・挨拶を始めとするお互いに関心を示し、目と目を合わせて挨拶することと年配者から様々なものを体験的実践的に学ぶという法律以前の問題としての倫理観や道徳の欠陥即ち社会の秩序の乱れにあると思う。その根底にあるのは都会化と核家族制度である。今の日本の建築物、特にマンションなどはよほどの金持ちで億ションに住む人は例外として多くは40〜70平米前後で生活しており、そこに家族、親戚が訪れても共同生活できるスペースはも無く、小さくとも子どもの個室が設けられ銭湯や大浴場が姿を消す代わりに各家庭に風呂が必然となった。そのため大家族や多くの友人達と共有できるスペースがなくなっている。私は日本の家庭にほほえみと絆を取り戻すためには政府の政策によって超高層化する建物は、安価で最低各家族が三世代が共同生活出来るようなスペースを確保し供給することが社会再構成、人間復興、健全な国作りのための急務であると考える。

※財団法人・都市計画協会『新都市』(2009年8月号)より転載。

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2009年9月 8日 (火)

田中元外相発言に抗議する

チベット問題に無神経
中国の非道を認める不名誉

 あの田中真紀子女史がダライ・ラマ法王を名指しで批判した。しかも「ダライ・ラマ」と敬称無しである。田中女史の支離滅裂な言動は今更驚くに値しないほど有名であるので、これが国内のマスコミ向けのパフォーマンスであったら私も軽く流してしまえたかもしれないが、今回の言動は国際問題である。一国の外務大臣経験者が600万のチベット人の感情をいたずらに傷つけただけでなく、時代の精神指導者として世界中の法王の支持者たちに対する無神経な発言であると言わざるを得ない。

 中国の報道機関に対し、田中女史はダライ・ラマ法王の対話路線について高度な自治を求めることはやがて独立を求めることに変わりがないと言い、北京政府を喜ばせるのに必死だったようで、それをチベットに関心ある者がユーチューブで取り上げている。

 彼女の御父君、田中角栄元総理は北京に出掛けてから中国政府から先の戦争に対して謝罪を求められた時、一晩悩んだうえ当時の外務大臣、官房長官などから説得されやっと多大な迷惑を掛けたことに対し遺憾の意を表すことで政治的決着をつけ中国と国交を結ぶ、つまり国交正常化に踏み切ったのである。その結果として日中は正式に国交を結び、数十万人の中国残留孤児つまり戦争時やむを得ず中国に残していた日本人が祖国に帰国することができた。

 私は当時、佐藤栄作首相の立場同様、北京政府の承認が早すぎると思っていたが実際残留孤児の人々が日本に戻って来た姿を見て、田中角栄氏のしたことは評価に値するものがあり、その残留孤児たちを我が子のように育ててきた中国人の人々に対しても人間として感銘を受けた。

 このようにして日本と中国は国交が正常化されたはずであったにも拘わらず、その後田中女史など2世、3世が北京に対し、意味のない謝罪の言葉を連発してのへつらい競争は嘆かわしく、そして今回のように田中女史は、世界の指導者たちが北京政府に対しチベットにおける抑圧的植民地支配をやめ、ダライ・ラマ法王との対話を促進するように進言しているところへ、日本国の元外務大臣が時代に逆行するような発言をした。これは彼女がチベットの歴史、伝統、文化などについて無知であるということだけでなく、今の世界情勢に関しても無知か無関心であることを物語っている。

 最近、彼女は民主党に移籍した。しかも選挙中から、もし民主党が国民の信託を受けて政権担当するようになった場合、入閣するだろうとマスコミ辞令も出ていたらしい。

 民主党は自由人権を尊ぶ政党として中には“地方主権”まで唱える人がいる政党である。ICJ(インターナショナル・コミッション・オブ・ジュリスト)つまり国際司法委員会は、その調査結果として中国がチベットにおいて計画的組織的大虐殺を行ったと結論を出している。またチベット亡命政府は120万人の命が中国の悪政によって奪われたと世間に訴え、これは広く認知されている。今年8月ウイグルにおける中国政府の当局が無差別に住民に対し発砲や暴行などしたことについて、トルコの総理大臣が中国によるジェノサイド(大虐殺)であると中国を批判した。

 以上のように今21世紀になっても依然として領土拡張主義、帝国主義的植民地支配を続けている中国に賛同することはこれらの行為を積極的に支援することであり、自ら自発的に非民主的、非人道的政府を支援することに他ならない。従ってこのような背景を知りながらその悪政に賛同する発言をする人間が日本の閣僚に籍を置くことは日本にとっても極めて不名誉なことである。

 私はこのようなことは放置してはならないことであると思うと同時に、それを国民の意思によって阻止しなければならないと考える。これはまさに中国の暴走というより田中女史の暴走であり、世界中の人々が平和の象徴としてダライ・ラマ法王の言動に深い評価と支援を送っているのに、田中女史のような無謀かつ無責任な発言をそのまま聞き流すことは日本のためにもならないと思い、この紙面をお借りして強く抗議することにした。

 もちろん田中女史から反論があれば堂々と反論して頂きたい。本来、私はいちいち他人の中傷や言動について時間を無駄にするタイプでは無いが、今回は誰それを代表するのではなく、一チベット人として、一国民としてこのような無責任、無神経な政治家の誕生は国益にとっても有害であると思い、筆を取った次第である。

 田中女史はかつて外務大臣の時、北朝鮮から「偉大な指導者」のご子息がふらふらと、蛾が灯明に飛び込むように向こうから日本に入り込んで来た時、拉致問題の政治的駆け引きの材料にせず慌てて帰国させてしまった張本人である。彼女のカメレオン的言動と政治的変身術は国内では通用するかもしれないが、国際的には彼女のみならず日本人と日本国の信頼を損なう要因になりかねないので、そのような人に国政を託すこと自体いかがなものかと強い疑念を抱いている。

※『世界日報』(2009年9月1日付)より転載

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