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2009年9月15日 (火)

まちと私 世界の屋根から島国日本へ

 世界には色々な町がある。私が生まれたチベットでは日本の昭和60年代あたりまであった田舎の町と変わらないような定住者を中心とする農村地帯や寺院が最初に出来、その周囲に自然に発生した寺町、シガツェ、ギャンツェなどのように城を中心とした城下町も存在していた。私自身の生家は一応当時「ボタン」と言われ城または宮殿として知られていた。勿論それは日本の御所や城などのような華やかさは無かったが、一応当時珍しかったガラス窓の部屋があり、土壁で作られた4階建ては子どもの私の目には大変大きく感じていた。窓は外部からの攻撃を最小限にするため、内部にむけて狭くなっている部屋も数多くあった。チベットにおいて冬は「バ」といってヤクの毛で作った大きなテントを張って移動する遊牧民の町も存在した。これらの生活共同体には様々なまつりごとを始めとし、協同作業があり「キドゥク」喜びと悲しみつまり苦楽共の会というものが存在し、互いに助け合うことが不可欠な社会であった。しかし私は7歳でこの共同体を去らなければならず、移民としてインドへ逃れ、そこでまた別の形の町生活を体験した。インドに着いた頃最初は難民キャンプで数ヶ月生活し、インド政府が用意した仮設住宅でボランティアスタッフの温かいケアのもと家族は生活を始めたが、栄養失調から来る抵抗力低下であらゆる不調が重なり私は入院生活を強いられた。毎日部屋から運び出される遺体を見ても感覚が慣れて麻痺してしまい、自分も待っているような気にさえなった時期があった。しかしここでもすぐに生活共同体が発生し町が生まれ、様々な商売が始められ周辺からインド人の猿使い、蛇使い、果ては象使いまでがやって来て私達難民を励ましてくれた。
 1965年12月11日私は当時の羽田空港に到着し、その晩のうちに埼玉県の毛呂山町という静かな農村に案内され、以来6年間私にとって最も心の落ち着く平和で長閑な日々をここで過ごした。その当時からしばしば「日本に来て寂しくなかったか」とと聞かれたが、私は本当に寂しくはなかった。毛呂山町の人々のひとなつこい性格や誰にも声を掛け合う親密さは私の故郷チベットの町と同じであったからだった。更に進んで私達をまるで町そのもののお客であるかのように八百屋も米屋も肉屋も本屋も皆が親切にしてくれた。その頃出始めた即席ラーメンを買いに行くと、おまけとしてネギを下さったり、パン屋に行っても同様に何かおまけをしてくれたり、風邪を引いて欠席すると友達の母親がどぶろくにショウガや卵を入れたものを持ってきてくれたり、友達はその日の授業の内容や宿題を教えてくれた。進学時はこちらから挨拶をすると畑仕事を終えて帰宅する母親たちは、自転車から降りて首に巻いた手ぬぐいを取って丁寧に挨拶を返してくれたりした。やがて飯能市の高校に通学するようになってからは私達のスポンサーの病院の食堂のおばさんたちは毎朝私達5人の留学生のために弁当を作ってくれたり、特に私達は魚が苦手であったため様々な工夫を凝らして豚肉や鶏肉、鯨肉などをたっぷり入れて下さった。中学高校でも生徒達は私達を仲間として普通に受け入れ、私は中学でも高校で生徒会長や評議会議長という自治会のトップに選んでくれたりした。やがて大学入学のため東京の池袋病院でお世話になり、初めて都会へ移動しラッシュアワーも経験し、都会ではとまどいもあり、人々の流れと多さにめまいすら感じた。
 しかし一旦大学の構内や病院でアルバイトをしたりして人と接すると先輩後輩の人間関係が確立しており、そこではまた外の冷たいコンクリートの森とは違って、温かい人間のぬくもりが残っていた。しかし東京という大都会は様々なインフラ整備が整っており生活が想像を絶するほど便利で、町には季節に関係なく年中美味しいものが売られ簡単に食べられるようになった。私も大学卒業と同時に渋谷区神南でアパート生活を始め、ここでまた新たな町と出会った。当時まだ渋谷近辺には1階建てが多く頑固なトンカツ屋の親父さんや焼鳥屋のおばさんもすぐ顔を覚えてくれた。しかし日本はやがてこれらの一戸建ての個人経営の店舗が姿を消しマンションや超高層ビルがあちこちに出来て、私も大田区、品川区とマンション生活に移行していった。マンション一つの世帯数は私が子どもの頃に体験した町くらいの規模であったが、そこには殆どお互いの交流が存在せず、二年ほど前私の甥がインドから遊びに来た時エレベーターで会う人、会う人に丁寧に挨拶をして愛想良く振る舞っていた時、誰が見ても明らかにアジア系外国人に見える人から声をかけられて驚く主婦と、その主婦の驚きに目を丸くする甥をみて私はこの都会という新しい町にいつのまにか自分自身も慣れていたことに気づき、ある種の寂しさを急に強く感じるようになった。
 その後、意識的に見ていると、こちらから挨拶をしても返事を返してくれるのはかなりの年配者か子どもであることに気が付いた。しかもこの子どもが挨拶を返すとき、変な顔をする若い母親に私は大変違和感を覚え、そしてこの日本の将来についても不安を抱き始めた。
 国際親善や出会いを求めて海外旅行をしたり会費を払って合コンに参加しても、自然に自分の身近な人々と互いに目線を逸らすような社会は極めて不健康であるように思った。このような自分が毎日会っている人との会話が無い一方、家を出て施錠すると同時に携帯電話で顔の見えない相手と話し始める若者やメールに夢中になる若者の増加によって目を見て会話をするということが少なくなってきているように思う。私が少年から青年時代過ごした家には昼間は殆ど鍵が掛かっておらず、むしろ埼玉などでは店の奥に主がいて、お客がはいって声を掛けると初めて出てくるような、お互いに信用しあい信頼しあえる町であったが、最近のマンションは二重三重のロックと防犯カメラを設置しても事件が多発し、店も同様に防犯カメラを付けたり警備員を雇っても万引き、盗難、果ては強盗まで頻発している。勿論その原因は経済的理由や社会の変動など色々考えられるだろうが、私は一番の原因は人間同士のコミュニケーション・挨拶を始めとするお互いに関心を示し、目と目を合わせて挨拶することと年配者から様々なものを体験的実践的に学ぶという法律以前の問題としての倫理観や道徳の欠陥即ち社会の秩序の乱れにあると思う。その根底にあるのは都会化と核家族制度である。今の日本の建築物、特にマンションなどはよほどの金持ちで億ションに住む人は例外として多くは40〜70平米前後で生活しており、そこに家族、親戚が訪れても共同生活できるスペースはも無く、小さくとも子どもの個室が設けられ銭湯や大浴場が姿を消す代わりに各家庭に風呂が必然となった。そのため大家族や多くの友人達と共有できるスペースがなくなっている。私は日本の家庭にほほえみと絆を取り戻すためには政府の政策によって超高層化する建物は、安価で最低各家族が三世代が共同生活出来るようなスペースを確保し供給することが社会再構成、人間復興、健全な国作りのための急務であると考える。

※財団法人・都市計画協会『新都市』(2009年8月号)より転載。

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