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2010年11月

2010年11月10日 (水)

チリ救出劇に学ぶ国歌の力

合唱で得た団結と希望

日本になかった信仰の評論
 


  中国では毎日のようにどこかでデモが起きており、当局からある意昧で奨励され形だけの取締りしか受けない反日デモが続出している。チベットでも学校教育にチベット語を認めて欲しいという若者によるデモが行われた。恐らく、これからも様々な要求を掲げたデモが多発するであろうと思う。東ヨーロッバで共産主義独裁政権が崩壊したときの前触れのようなものであると私は認識している。

 しかし、ペマ・ギャルポが書くと中国批判しか書かないように思われるのも困るし、また幸いにして今回の尖閣諸島問題でも中国の傍若無人な振る舞いのおかげで日本国民も目が覚めてきているようだし、評論家やマスコミもその世論に触発されて少しずつ中国を保護しきれなくなり、真実を伝え始めているように思うので、私は今回敢えて違うテーマを選択した。

 日本の皆様はマスコミの関心度とともに記憶も関心の対象も移り変わっていくのが早いようだ。数週間前のことを思い浮かべていただきたい。8月5日、チリのコピアポ近郊サンホセ鉱山で落盤事故が起き10月14日に救出が完了するまで33名が地下の退避所で生き延びたという事件があった。事件そのものの詳細については、毎日のようにワイドショーなどで紹介されたのでここでの内容紹介は割愛する。

 だが、私が気になった二つの点について所見を述べたい。その一つは彼らがあの厳しい環境の中、極限状態を乗り越えた要因として皆で国歌など歌を合唱することで連帯感と生きる活力を得られたと指摘されており、私もそのことに対して異論は無く、当然と思う次第である。救出された時のチリ国歌の大合唱と、国歌を歌う時の一人ひとりの姿勢は見事であった。

 偶然かもしれないが日本では長きにわたって歌い続けられた寮歌祭でさえメンバーの高齢化などを理由に、今年で終止符を打つことになったと報道されていた。私は勿論戦前及び戦中の教育を受けたわけでは無いが、私の恩人であるM先生が70年代の日本商工会議所の永野会頭らと協力し合ってこの寮歌祭を盛り上げようと懸命になっておられていた関係で、数回この寮歌祭に参加したことがある。

 私の母校の亜細亜大学は戦前の興亜専門学校から再復活で戦後亜細亜大学になったので、旧制の学校ではなかったが亜細亜大学の校歌や寮歌には大変愛着を持っている。後に学長が代わり、校歌を替えようとした時も大反対をした記憶がある。その時、私が当時の学長に、卒業生と在校生、先輩と後輩を同窓生としてつなげる、人間で言えばおへそのようなものは建学精神であり、校歌であると強調して申し上げた。だから、このチリの人々は国歌を斉唱する時は民族の団結を感じ、誇りと希望を胸に抱き前進するような気持ちになったであろう。

 しかし、日本では未だに国歌を歌うことに抵抗する人がおり、学校の先生でさえも生徒に対し、国歌を否定するような教育をするという、国際社会でも常識で考えられない現状がある。また一時校歌はリズムも歌詞も古臭いと言って、新しく魂の抜けたようなものに変えることで、受け継がれてきた先輩たちとの伝統的な絆までもが断ち切られるような意図的な働きを感じた。民謡、民話についても同様である。

 次に、私が評論家たちの話を聞いて欠けているものは信仰についてである。私が知る限り日本の評論家、コメンテーターたちは一言も触れなかったが、あの33名とその家族を支えたのは信仰の力であると思う。彼らは敬虚なキリスト教徒として共に祈り、救われることを信じていた。だが日本では政教分離を楯に宗教を社会生活から排除しようという共産主義的思想がはびこり、信仰を持たないことが進歩的、科学的であるかのように振る舞っている人々が多い一方、宗教を商業化し形式や儀式だけを強調して宗教の中身を薄める風潮を生んでいる。

 私は信仰や宗教を他人に押し付けることは当然良くないが、政教分離とは宗教を排除するという意味ではなく、あらゆる宗教は当然ながら宗教を信仰しないことを含めてお互いの立場を尊重しあい、国家や社会が特定の宗教を贔屓したり他に押し付けたりしないことであると理解する。従って先生や社会が宗教を軽視するような構造を作ったり、その選択肢を若い世代に誘導することも同様に政教分離の思想に反すると思う。

 私自身は仏教徒であるがこの33名とその家族の強い信仰心から今回多くを学べたような気がする。自然災害や死そのものはいついかなる時にやって来るかは誰も予測できない。故に常日頃から何か強い信仰のようなものを持つことの大切さを今回の事件から日本はぜひ思い起こして欲しい。「神は信ずる者のみを救う」というのは神が信じない者を差別するというものではなく、信仰を持って救いを求める者に神は繋がる、すなわち自分自身に内在する信仰に覚醒し、謙虚に信じる何かを保有することではないだろうか。ゆるぎない確信から生まれる安らぎを忘れてはならないことを学んだ気がする。

※『世界日報』(2010年11月2日付)より転載。







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